ないものねだり 【11月20日(木)】
2003年11月20日 ファッション雑誌『MEN’S NON-NO』12月号をペラペラとめくっていたら、俳優の吉沢悠が載っていた。ちょっと童顔のいい男。彼は、僕の従兄弟(いとこ)によく似ている。そんなカッコイイ従兄弟は運動神経も持ち合わせ、僕にとってはちょっとした憧れの存在だった。いつでも僕より輝いているように見えたものだが、実は「ないものねだり」はお互い様だったことを後に気付いた。
「今日はスタメンで出て、2人抜いてゴールを決めたぞ!」と興奮気味に自慢した従兄弟は、中学卒業後、地元のサッカー強豪校・修徳高校に進学した。同じ時期には在校しなかったものの、同校の先輩にあたる元日本代表MF北澤豪氏が学校を訪れた際には直接教えてもらったこともあるそうだ。持ち前の運動能力と負けん気の強さで、1年生でありながらレギュラーを奪うほどだったから、ひょっとすると、今をときめくJリーガーになれる可能性もあったのかもしれない(当時はJリーグは誕生していない)。
しかし、そんな彼は次第に“グレ”始め、シンナーを吸って登校したところを見つかって退学になった。会う度にオーラが消えていく彼の姿はとても寂しかったことを覚えている。同じ頃、彼は父親と大ケンカをして家を飛び出した。友人の家を転々としながら生活していたという。そしてまた、僕が彼の「ないものねだり」に気付き始めたのも、この頃だった。
明るくて優しくて僕を可愛がってくれていた彼が、急に態度を冷たくし始めた。だが、その割には喜んで僕の家へ遊びに来た。僕の親父は食べ物の好き嫌いを許さない人間で、彼は僕の家に来る度に嫌いなピーマンを食べさせられていた。それでも、彼は「お前のおじさんは、ああだな。おばさんはこうだな」と楽しそうに話していた。そんな不思議な光景から「僕が住む家庭に何かを求め、僕を妬んでいる」ことに僕は薄々気が付き始めた。
高校中退後も、彼は生活を更生させることはなく、バイクや自動車での暴走行為を繰り返し、ケンカや事故で警察の世話になったことも少なかった。時々、僕のおふくろが彼を説教しに出向いたこともあった。僕のおふくろは、彼のお母さんの妹にあたる。数年前には“できちゃった結婚”から間もなく離婚など、あんまりいい話は聞かないが、それでも年齢を重ね自活が長くなるにつれ、多少は落ち着いてきたようだ。
僕は高校3年の冬と、浪人時代の冬に、彼の実家に居候(いそうろう)した。そして、その時に初めて気付いた。いや、薄々と感じていた、彼の寂しさの原因を確信した。彼のお母さんと、お父さんのお母さん(おばあさん)は決して仲がいいとは言えなかった。おばさんは、おばあさんに冷たかった。優しい心を持っていた少年時代の従兄弟は、この状況に敏感に反応したに違いなかった。そして、そのストレスは解決に打って出なかったか、出てもダメだったのかは知らないが、責任は父親に向けられて当然だった。僕は彼の笑顔の裏にあったであろう苦悩を思うと、やりきれなかった。その時初めて、自分は彼であるよりも自分自身であって良かったと思ってしまった。
色々と都合があったのだろうが、彼の兄も一人暮らしを始めたため(結婚を経て、今は親と同居)、彼の実家は両親とおばあさんの3人で生活。共働きだから、おばあさんの相手は主にマルチーズのチャビだった。高校3年の冬、数年ぶりに訪れた時、おばあさんは僕がだれだか分からず「どちら様ですか」と聞いてきた。そして、その数年後におばあさんは他界した。
あろうことか、当時の僕は人並みの大学生活を追い求め、髪を金色に染めていた。そして、普段は染めていなかったために、自分が金髪であることを忘れて、そのまま通夜に参列した。従兄弟は久しぶりに僕を見て「お前もデビューしたか」とふざけて言った。浪人時代の冬に訪れた際には、僕と従兄弟とおばあさんで話をしたことがあった。2台目のRX−7もシャコタン(低車高)に改造して乗り回し、どこぞでゼロヨンレースに出たりもしていた従兄弟に、おばあさんは言った。「なんだ、お前の車は。あんなに車体をひきずって!」。段差のある駐車場に停められない車を馬鹿にされた従兄弟は苦笑しながら「ひきずってないよ!」と、まるで無邪気な子どもだった。
おばあさんに「これが夜逃げというやつだと思った」と言わしめた家出後も、従兄弟は時々実家に顔を出した。そうするように言われたことも手伝ったのだろうが、両親とおばあさんの関係が気がかりだったに違いない。自分に負い目もあっただろう。顔がよくて、女の子に人気があって、その上、運動神経も抜群。そんな彼の痛ましい一面だ。
一枚の人気俳優の写真から、僕が最も身近に感じた「ないものねだり」を思い出し、綴っていたら、こんな長さになってしまった。最後まで読んでくださった方、秋の夜長の暇つぶし程度にはなりましたでしょうか(笑)?
「今日はスタメンで出て、2人抜いてゴールを決めたぞ!」と興奮気味に自慢した従兄弟は、中学卒業後、地元のサッカー強豪校・修徳高校に進学した。同じ時期には在校しなかったものの、同校の先輩にあたる元日本代表MF北澤豪氏が学校を訪れた際には直接教えてもらったこともあるそうだ。持ち前の運動能力と負けん気の強さで、1年生でありながらレギュラーを奪うほどだったから、ひょっとすると、今をときめくJリーガーになれる可能性もあったのかもしれない(当時はJリーグは誕生していない)。
しかし、そんな彼は次第に“グレ”始め、シンナーを吸って登校したところを見つかって退学になった。会う度にオーラが消えていく彼の姿はとても寂しかったことを覚えている。同じ頃、彼は父親と大ケンカをして家を飛び出した。友人の家を転々としながら生活していたという。そしてまた、僕が彼の「ないものねだり」に気付き始めたのも、この頃だった。
明るくて優しくて僕を可愛がってくれていた彼が、急に態度を冷たくし始めた。だが、その割には喜んで僕の家へ遊びに来た。僕の親父は食べ物の好き嫌いを許さない人間で、彼は僕の家に来る度に嫌いなピーマンを食べさせられていた。それでも、彼は「お前のおじさんは、ああだな。おばさんはこうだな」と楽しそうに話していた。そんな不思議な光景から「僕が住む家庭に何かを求め、僕を妬んでいる」ことに僕は薄々気が付き始めた。
高校中退後も、彼は生活を更生させることはなく、バイクや自動車での暴走行為を繰り返し、ケンカや事故で警察の世話になったことも少なかった。時々、僕のおふくろが彼を説教しに出向いたこともあった。僕のおふくろは、彼のお母さんの妹にあたる。数年前には“できちゃった結婚”から間もなく離婚など、あんまりいい話は聞かないが、それでも年齢を重ね自活が長くなるにつれ、多少は落ち着いてきたようだ。
僕は高校3年の冬と、浪人時代の冬に、彼の実家に居候(いそうろう)した。そして、その時に初めて気付いた。いや、薄々と感じていた、彼の寂しさの原因を確信した。彼のお母さんと、お父さんのお母さん(おばあさん)は決して仲がいいとは言えなかった。おばさんは、おばあさんに冷たかった。優しい心を持っていた少年時代の従兄弟は、この状況に敏感に反応したに違いなかった。そして、そのストレスは解決に打って出なかったか、出てもダメだったのかは知らないが、責任は父親に向けられて当然だった。僕は彼の笑顔の裏にあったであろう苦悩を思うと、やりきれなかった。その時初めて、自分は彼であるよりも自分自身であって良かったと思ってしまった。
色々と都合があったのだろうが、彼の兄も一人暮らしを始めたため(結婚を経て、今は親と同居)、彼の実家は両親とおばあさんの3人で生活。共働きだから、おばあさんの相手は主にマルチーズのチャビだった。高校3年の冬、数年ぶりに訪れた時、おばあさんは僕がだれだか分からず「どちら様ですか」と聞いてきた。そして、その数年後におばあさんは他界した。
あろうことか、当時の僕は人並みの大学生活を追い求め、髪を金色に染めていた。そして、普段は染めていなかったために、自分が金髪であることを忘れて、そのまま通夜に参列した。従兄弟は久しぶりに僕を見て「お前もデビューしたか」とふざけて言った。浪人時代の冬に訪れた際には、僕と従兄弟とおばあさんで話をしたことがあった。2台目のRX−7もシャコタン(低車高)に改造して乗り回し、どこぞでゼロヨンレースに出たりもしていた従兄弟に、おばあさんは言った。「なんだ、お前の車は。あんなに車体をひきずって!」。段差のある駐車場に停められない車を馬鹿にされた従兄弟は苦笑しながら「ひきずってないよ!」と、まるで無邪気な子どもだった。
おばあさんに「これが夜逃げというやつだと思った」と言わしめた家出後も、従兄弟は時々実家に顔を出した。そうするように言われたことも手伝ったのだろうが、両親とおばあさんの関係が気がかりだったに違いない。自分に負い目もあっただろう。顔がよくて、女の子に人気があって、その上、運動神経も抜群。そんな彼の痛ましい一面だ。
一枚の人気俳優の写真から、僕が最も身近に感じた「ないものねだり」を思い出し、綴っていたら、こんな長さになってしまった。最後まで読んでくださった方、秋の夜長の暇つぶし程度にはなりましたでしょうか(笑)?
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