僕が生まれて初めて「一生懸命」の素晴らしさを知ったのは、小学校6年生の時だった。そして中学校の2〜3年生で再び、その燃焼を体現することができた。しかし、それ以来、僕は「一生懸命」になっていない。模索したり、どこかで遠ざけたり、怠けた気持ちに負けたり……。これじゃあ、まるで燃えられないゴミだ。そんなことを感じて、ここ最近は「燃えたい」と思っていた。しかし、渋谷のライブハウス「屋根裏」で音をかき鳴らしている人たちを見た時、その感覚に適当な言葉は、少し違うものであるような気がした。

「発火したい」。今までは、心についた火をさらに「燃やしたい」のだと、ずっと思っていた。天下を取るために選んだ言葉という道を、すさまじい勢いで走りたいのだと思っていた。でも、どこかですでに火が消えている可能性も感じていた。とてもじゃないが、受け入れる気にはなれない感覚だけれど。僕は今「発火したい」のだと思う。

 自分を自分の言葉でうまく騙していたような気がする。他人に対して自分の話をしている時の僕は、相当に怪しい。喋り終えて1人になる時にいつも「本当か?」と自分に問いただす。答えはいつも曖昧で、誤魔化しにかかる自分がいる。こいつをぶっ飛ばす必要がある。

 オレは発火したい。「逃げるな、追え。家まで行ったれ」(三代目魚武濱田成夫)の言葉のごとく、タイミングをただ待つのではなく捕まえに行きたい。オレは今、何がしたいのか。確信が揺らぐことに恐れを抱かず、頭から突っ込んで戦うべきだ。ポストに朝刊を取りに行くように、今日も天下を獲りに行け。

<おまけ:タイトル>
「放火したい」じゃないからね、念のため。

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