サンタクロース論と宗教観と 【12月24日(土)】
2005年12月24日 最初に、僕のクリスマスとの関係を話しておこう。「関係がない」もしくは「嫌い」。この話をすると、必ず単なる不幸自慢だと勘違いされる節がある。確かに、正直な話として「クリスマスの甘い話」は、僕の人生に存在しない。モテない男の僻み(ひがみ)であると言われても、完全には否定できない。ただ、例えば付き合う女の子がいた時でもやはり、クリスマスを祝う気にはならなくなったのは、間違いのないことである。簡単に理由を述べるなら、無宗教というか排宗教というか、そんな世界観である。
さて、この話は少し面倒なので、後回しにする。まずは、何年か前に我が家で起きたサンタクロース殺人事件について書こう。「サンタクロースは実際にはいない」と、子どもが認識する平均年齢はいくつだろうか。僕の中で最も古い記憶は、幼稚園の頃に友人のケイが「サンタクロースはお父さんだった」と言ったことだ。
どうやら、サンタクロースというのはいないらしい――そんな考えを持ったものの、どうしても確かめるのは気が引けた。見た瞬間に、サンタクロースがいないことではなく、両親に裏切られたと思うのが嫌だった。かくして、僕は小学校の中学年ぐらいまでサンタクロースを何とか信じることにした。さて、なぜに僕は現実を無視できたのであろうか。
それは、幽霊やUFOなど、存在の確証がない他の存在と同様に扱っていたからだ(僕に言わせれば「神様」も同格である)。「サンタクロースはいないけど、幽霊はいるかもしれない」なんていう考え方は、随分と勝手だと思うのだ。どちらも見たことがないのに、と。周囲が「いない」と言えば「いない」という多数決には疑問を抱いていた。つまり、「幽霊やUFOがいるかもしれないなら、サンタクロースも『いるかもしれない』であるべきだ」と考えていたのである。
しかし、僕は小学生にしてサンタクロースの死を知ることになる。「絶対にいない」と確信を持ちながらも自論の可能性を生かすためにサンタクロースへの手紙を書いた僕に母は言った。
「あんた、まだサンタクロースなんか信じてるの? バカじゃないの?」
この瞬間に我が家のサンタクロースは死んでしまったのである。もちろん、他殺だ。殺人犯はほかでもない、僕の母親である。
サンタクロースを母に殺された僕は、その後も「サンタクロースとは何か」を考えた。1年に1度しか考えないので、なかなか結論が出なかったのだが、おそらく、それは人名ではなく職業名なのである。それも、推察するにかなり高度な技術を要する仕事だ。マジシャンなみの魅力、配送業者顔負けの運動力、“武士は食わねど高楊枝”の金銭感覚……と、本来はさまざまな資質が問われる。しかし、その難易度の高さから次第に人手不足に陥り、大学試験のごとく門戸は広く開放され、徐々にハードルは低くなった。そして、お客様である子どもに一番近い立場の大人が季節限定の短期アルバイトを行うことになったのである。
つまり、我が家の場合で言えば、母がサンタクロースのアルバイトに飽きて仕事をちゃんとやらなかったことになる。そうでなければ、やはりサンタクロースは我が家で母に襲われ、非業の死を遂げたのである。ただ、性質が悪いのは、僕の母親はサンタクロースは殺したくせに幽霊や神様は殺さないのである。どうせならニーチェのモノマネでもして皆殺しにしてほしかったというものだ。そのおかげで、僕は神様を殺すのに苦労していたのだ。
その後、僕は自分が自分の神になることで、神を消し去った。だから、クリスマスに祝うべきことは何もないのである。不幸な男だろうか? そうかもしれない。だが、何も悲しみはない。それはもっと不幸だろうか? そうかもしれない。でも、「神様」が欲望の旗印に使われ、もっともらしく人を殺すことに利用されている歴史がある。僕は、彼らがいなければ避けられる戦争や殺し合いが山ほどあるという考えを無視できない。「関係ない」と言う人も多くいるだろうが、僕にはどうしてもそうは思えないのである。
さて、やっぱり最後に自論を書いてしまったが、読んだ人はしんみりしてしまっただろうか。それでも、僕は来年もまたきっと、似たようなことを思うだろう。今夜はクリスマス・イブです。皆さん、楽しんでますか? 浮かれてますか?
さて、この話は少し面倒なので、後回しにする。まずは、何年か前に我が家で起きたサンタクロース殺人事件について書こう。「サンタクロースは実際にはいない」と、子どもが認識する平均年齢はいくつだろうか。僕の中で最も古い記憶は、幼稚園の頃に友人のケイが「サンタクロースはお父さんだった」と言ったことだ。
どうやら、サンタクロースというのはいないらしい――そんな考えを持ったものの、どうしても確かめるのは気が引けた。見た瞬間に、サンタクロースがいないことではなく、両親に裏切られたと思うのが嫌だった。かくして、僕は小学校の中学年ぐらいまでサンタクロースを何とか信じることにした。さて、なぜに僕は現実を無視できたのであろうか。
それは、幽霊やUFOなど、存在の確証がない他の存在と同様に扱っていたからだ(僕に言わせれば「神様」も同格である)。「サンタクロースはいないけど、幽霊はいるかもしれない」なんていう考え方は、随分と勝手だと思うのだ。どちらも見たことがないのに、と。周囲が「いない」と言えば「いない」という多数決には疑問を抱いていた。つまり、「幽霊やUFOがいるかもしれないなら、サンタクロースも『いるかもしれない』であるべきだ」と考えていたのである。
しかし、僕は小学生にしてサンタクロースの死を知ることになる。「絶対にいない」と確信を持ちながらも自論の可能性を生かすためにサンタクロースへの手紙を書いた僕に母は言った。
「あんた、まだサンタクロースなんか信じてるの? バカじゃないの?」
この瞬間に我が家のサンタクロースは死んでしまったのである。もちろん、他殺だ。殺人犯はほかでもない、僕の母親である。
サンタクロースを母に殺された僕は、その後も「サンタクロースとは何か」を考えた。1年に1度しか考えないので、なかなか結論が出なかったのだが、おそらく、それは人名ではなく職業名なのである。それも、推察するにかなり高度な技術を要する仕事だ。マジシャンなみの魅力、配送業者顔負けの運動力、“武士は食わねど高楊枝”の金銭感覚……と、本来はさまざまな資質が問われる。しかし、その難易度の高さから次第に人手不足に陥り、大学試験のごとく門戸は広く開放され、徐々にハードルは低くなった。そして、お客様である子どもに一番近い立場の大人が季節限定の短期アルバイトを行うことになったのである。
つまり、我が家の場合で言えば、母がサンタクロースのアルバイトに飽きて仕事をちゃんとやらなかったことになる。そうでなければ、やはりサンタクロースは我が家で母に襲われ、非業の死を遂げたのである。ただ、性質が悪いのは、僕の母親はサンタクロースは殺したくせに幽霊や神様は殺さないのである。どうせならニーチェのモノマネでもして皆殺しにしてほしかったというものだ。そのおかげで、僕は神様を殺すのに苦労していたのだ。
その後、僕は自分が自分の神になることで、神を消し去った。だから、クリスマスに祝うべきことは何もないのである。不幸な男だろうか? そうかもしれない。だが、何も悲しみはない。それはもっと不幸だろうか? そうかもしれない。でも、「神様」が欲望の旗印に使われ、もっともらしく人を殺すことに利用されている歴史がある。僕は、彼らがいなければ避けられる戦争や殺し合いが山ほどあるという考えを無視できない。「関係ない」と言う人も多くいるだろうが、僕にはどうしてもそうは思えないのである。
さて、やっぱり最後に自論を書いてしまったが、読んだ人はしんみりしてしまっただろうか。それでも、僕は来年もまたきっと、似たようなことを思うだろう。今夜はクリスマス・イブです。皆さん、楽しんでますか? 浮かれてますか?
コメント