探すのを止めた時、見つかることもよくある話? 【3月18日(土)】
2006年3月18日 小学5年生が自宅で首をつったという、悲しい記事を読んだ。学校で教師から注意を受け、帰宅後に死亡したという。記事には、その日に学校で起きた出来事がいろいろと綴られていた。首をつってしまった子が、どんなことを考えていたか、(普段から)どんなことをしたのかは、分からない。ただ少し、僕は同じ年頃の思い出を振り返った。
当時、一番気になっていたことは「もしかして、先生なんて全然正しくないんじゃないの?」という疑問だった。それまでは、比較的ながら優等生の部類に入っていたはずなのだが、少しずつ感覚が変わっていった。テレビでドラマ「はいすくーる落書」を見たり、千葉のいとこの家で初めてザ・ブルーハーツの曲を聴いたりしていると、自分の中でずっとモヤモヤしていたものが、「やっぱり、たまにはオレが正しいよなあ」などと思うようになり、ようやくスッキリしつつあった(大いなる自己確立と大いなる勘違いの始まりですね)。
自分に対して怒っている人に「いやいや、オマエが間違ってるやろ」と思う事は、今でもよく起こる。でも、小学生から特に高校生ぐらいまでは、いかにも学校や先生というものは模範的存在として扱われているために(当初は僕自身もそういう目で見ていたから)余計に反抗心が強まった。小学校の6年生では、納得のできない理由で怒られたため、授業をボイコットした。中学では、もはや先生に親近感を覚えず、無視。高校では、屁理屈のオンパレードで卒業式の日に担任から「オマエの担任、嫌や」と言われた(2年も受け持ったのに)。
いずれにしても、思い出してみれば、どうでもいいような些細な事なのだが、やはり特に小学校時代は「どうして分かってくれないのか」という思いが強かった。だれにも理解されない世界など、面白くないに決まっている。でも、性質の悪い性格のためか、そういう時ほど小さな企みはどんどん膨らんでいく。まったく別の、世界の捉え方が見えてくる。人に愛されないのは、辛い。でも、自分を発動したい。孤独がオリジナリティーを強めるような、奇妙なSM現象が起こる。「オレはどうして同時にできないのか」と、いつも思う。
『探すのを止めた時、見つかることもよくある話』と歌った人もいるけれど、いつも答えは見つからない。あー、今日も見つからない。
当時、一番気になっていたことは「もしかして、先生なんて全然正しくないんじゃないの?」という疑問だった。それまでは、比較的ながら優等生の部類に入っていたはずなのだが、少しずつ感覚が変わっていった。テレビでドラマ「はいすくーる落書」を見たり、千葉のいとこの家で初めてザ・ブルーハーツの曲を聴いたりしていると、自分の中でずっとモヤモヤしていたものが、「やっぱり、たまにはオレが正しいよなあ」などと思うようになり、ようやくスッキリしつつあった(大いなる自己確立と大いなる勘違いの始まりですね)。
自分に対して怒っている人に「いやいや、オマエが間違ってるやろ」と思う事は、今でもよく起こる。でも、小学生から特に高校生ぐらいまでは、いかにも学校や先生というものは模範的存在として扱われているために(当初は僕自身もそういう目で見ていたから)余計に反抗心が強まった。小学校の6年生では、納得のできない理由で怒られたため、授業をボイコットした。中学では、もはや先生に親近感を覚えず、無視。高校では、屁理屈のオンパレードで卒業式の日に担任から「オマエの担任、嫌や」と言われた(2年も受け持ったのに)。
いずれにしても、思い出してみれば、どうでもいいような些細な事なのだが、やはり特に小学校時代は「どうして分かってくれないのか」という思いが強かった。だれにも理解されない世界など、面白くないに決まっている。でも、性質の悪い性格のためか、そういう時ほど小さな企みはどんどん膨らんでいく。まったく別の、世界の捉え方が見えてくる。人に愛されないのは、辛い。でも、自分を発動したい。孤独がオリジナリティーを強めるような、奇妙なSM現象が起こる。「オレはどうして同時にできないのか」と、いつも思う。
『探すのを止めた時、見つかることもよくある話』と歌った人もいるけれど、いつも答えは見つからない。あー、今日も見つからない。
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