小野のパスに異変を感じた。

 サッカー日本代表の親善試合(エクアドル戦)をテレビで見た。気になったのは、小野伸ニが今ひとつ輝かないことである。技術は申し分ないし、プレーの精度が特に落ちるわけでもない。一見、ごく普通のプレーに見えるが、それは異常事態のように思える。小野は、もっと特別な印象を与える選手だったはずなのだ。

 1999年、シドニー五輪のアジア地区1次予選(フィリピン戦)で左ひざに重傷を負った彼は、以降けがとの戦いを強いられている。まさに、けが、リハビリ、復帰の繰り返しである。そして、日本代表に招集されては負傷で離脱するという悪いサイクルが生まれた。6月にワールドカップ開幕を控え、彼は自分のポジション確保に焦っているようだ。おそらく、自称・他称を問わずサッカーファンならば、ここまでの流れは「知っている」ことだろう。小野自身も、ポジション争いにおける立場として有利な状況にいないことを認識している、というコメントを何度も出している。

 さて、エクアドル戦を見ながら新たに気付いた点は、小野が繰り出すパスの異変である。どこかせわしない気がする、今の彼のパスは、時々「自分勝手だなあ」という印象を与える。フェイントで相手をかわす動きに会場が沸き、ノールックパスで味方にボールを送る。いいプレーだが、僕はそこに小野の特別な持ち味を感じない。小野のプレーの特徴は、蹴ったボールが言葉を喋り出す部分にある。こんなふうに書くと「お前は頭がおかしいのか」と言われそうだが、少なくとも渡欧前の小野のプレーには、一つひとつメッセージが込められているように感じられた。「お前の利き足にパスを出すから、ワンタッチ目で前に仕掛けろよ」とか「後ろから敵が近付いているから、ボールに近寄りながらパスを受け取れよ」とか、小野のパスを見れば次のプレーヤーがどうすればいいのかさえイメージできた。

 しかし、今の小野のプレーから「メッセージ」は聞こえてこない。焦りから余裕がなくなったためなのか。だとすれば、彼は自信を取り戻すために、自信を持つべきだ。いや、ちゃんと書こう。「自分は日本代表に必要な選手で、期待に応える貢献をできる選手」という、メンバー選出への自信を取り戻すために「自分は優れた選手である、一段上のプレーができる選手である」という自信を持ち直すべきである。

 エクアドル戦で、小野はミドルレンジから思い切ったボレーシュートを放ったが、外した。小野は苦笑していた。しかし、余裕がある時の小野ならば、その場面はきっと笑いなどせず、何もなかったかのように次のプレーに移っているのではないかと感じた。先日のJリーグ(横浜F・マリノス戦)でゴール前からシュートを外した時、彼が頭を抱えているシーンを見た時に感じた違和感の謎が解けた気がする。

 僕が今の彼に輝きを感じないのは、ボールが言葉を失ったからである。小野自身は、ボールにメッセージを込めるプレーに対して今、どのように感じているだろうか。そもそも、こんなことを思っているのは僕だけなのかもしれないが、どうしても気にかかるところである。

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