解説者・ガッツ石松氏の挑戦に期待 【9月18日(月)】
2006年9月18日 ガッツ石松氏の挑戦に期待する。採点を公表する解説者――どう考えても損が多そうな役回りに、自身が望んでか望まずか、彼は挑戦することになった。解説者が採点を口にする時には、理由が必ず必要になる。そのときに大事なことは何だろうか? 多くの人に聞けば多くの答えが出るだろうが、僕は一つだけ挙げる。「信念を曲げずに言い切ること」だ。
いまさら言うまでもないが、ボクシングの採点は難しい。特に亀田戦でクローズアップされた10ポイントマストシステムは、試合全体の印象とは異なることも多く、採点をせずに試合を見ている人にとっては結果が不可解に映る場合がある。僕は全体を通しての印象こそが判定のベースであるべきだと思っている。できることなら柔道のように、ダウンだけを効果なり有効なりに換算し、最後は赤と白の旗揚げで勝敗を決めれば良いとさえ思う(途中で負傷して試合続行が不可能な場合もあり、実際には困難だが)。そんなわけで、攻防が微妙なラウンドでも優劣を必ず付ける採点方法は、全体とのズレをより大きくする可能性があるので好きではないのである。
さて、話を戻そう。僕が思うに採点者は試合の途中でそのズレに気付くこともあるはずだ。「このラウンドもチャンピオンがリードして10−9だ」と言いながら、全体的には挑戦者のアグレッシブさが目立っているだろうなと思うこともあるのではないか。少なくとも僕が採点をする場合は、ほぼ毎回起きた(だから止めたが)。大事なのは、ルール上は「ラウンド毎に採点」した結果が正しいのであり、僕を含めた多くの観戦者にとって正しいのは「全体を通しての採点」結果だということだ。採点の理由を語る場合、後者は無視される可能性があるが、仕方がないことと割り切るべきだと思う。結果としてガッツ石松氏の採点が、多くの観戦者にたたかれる可能性は否めない。だが、彼は揺らぐ必要はない。それは当然なのだから。「ほかの見方もある」のは、当たり前だ。採点理由の中に彼の視点がハッキリ描かれること、それだけが問題だ。他者を納得させるかどうかなど問題ではない。
もう一度まとめる。結果が伴わなくても良い。視聴者が納得できなくても良い。ただ、ガッツ石松氏の視点を明確に描くことだけが大事だ。この日、テレビ東京で録画放送された川嶋勝重の世界暫定王座決定戦における石松氏の解説には、その心意気が感じられた。実況アナウンサーの誘いに乗ることなく「細かいパンチが必要だ」という自論を展開し続けた。2ラウンドでダウンを奪ったのは川嶋であっても“ボクシング(という技術の攻防)では負けている”という自分が受けた印象を濁さずに採点し「川嶋は負けていると思う」と主張した。今回は、結果も伴った。注目も特大というほどではない。だから、何も問題は起きていない。ただし「細かいパンチが必要だ。大きなパンチは要らない」と主張している間に、川嶋のオーラーライトハンドが炸裂してダウンを奪ったシーンのようなことがあれば、亀田戦では「この解説者は何を言っているんだ。全然違うことが起きたじゃないか」という批判は必ず沸いてくるだろう。
さらに繰り返す。そんな批判は問題ではない。結果論に合わせるだけなら、完ぺきな風見鶏を用意するか、2人の解説者にどちらかを擁護させ、片方を切り落とせばいい。だが、そんなことは何も生み出しはしない。一つの主張をポイントに、皆が考えれば大成功だ。そのためには余計な被弾もあるかもしれないが、信念・主張は曲げずに言い切ってもらいたい。かつてはルールの認識不足により、当時は採用されていなかったスタンディングカウントを取るべきだとしきりに叫んでいた時代もあったが、そんなマヌケなことはもうやらないだろう(と心から信じたいので信じる)。「KO牧場を期待します」の一言ぐらいは許すから、それだけは実行してもらいたい。
いまさら言うまでもないが、ボクシングの採点は難しい。特に亀田戦でクローズアップされた10ポイントマストシステムは、試合全体の印象とは異なることも多く、採点をせずに試合を見ている人にとっては結果が不可解に映る場合がある。僕は全体を通しての印象こそが判定のベースであるべきだと思っている。できることなら柔道のように、ダウンだけを効果なり有効なりに換算し、最後は赤と白の旗揚げで勝敗を決めれば良いとさえ思う(途中で負傷して試合続行が不可能な場合もあり、実際には困難だが)。そんなわけで、攻防が微妙なラウンドでも優劣を必ず付ける採点方法は、全体とのズレをより大きくする可能性があるので好きではないのである。
さて、話を戻そう。僕が思うに採点者は試合の途中でそのズレに気付くこともあるはずだ。「このラウンドもチャンピオンがリードして10−9だ」と言いながら、全体的には挑戦者のアグレッシブさが目立っているだろうなと思うこともあるのではないか。少なくとも僕が採点をする場合は、ほぼ毎回起きた(だから止めたが)。大事なのは、ルール上は「ラウンド毎に採点」した結果が正しいのであり、僕を含めた多くの観戦者にとって正しいのは「全体を通しての採点」結果だということだ。採点の理由を語る場合、後者は無視される可能性があるが、仕方がないことと割り切るべきだと思う。結果としてガッツ石松氏の採点が、多くの観戦者にたたかれる可能性は否めない。だが、彼は揺らぐ必要はない。それは当然なのだから。「ほかの見方もある」のは、当たり前だ。採点理由の中に彼の視点がハッキリ描かれること、それだけが問題だ。他者を納得させるかどうかなど問題ではない。
もう一度まとめる。結果が伴わなくても良い。視聴者が納得できなくても良い。ただ、ガッツ石松氏の視点を明確に描くことだけが大事だ。この日、テレビ東京で録画放送された川嶋勝重の世界暫定王座決定戦における石松氏の解説には、その心意気が感じられた。実況アナウンサーの誘いに乗ることなく「細かいパンチが必要だ」という自論を展開し続けた。2ラウンドでダウンを奪ったのは川嶋であっても“ボクシング(という技術の攻防)では負けている”という自分が受けた印象を濁さずに採点し「川嶋は負けていると思う」と主張した。今回は、結果も伴った。注目も特大というほどではない。だから、何も問題は起きていない。ただし「細かいパンチが必要だ。大きなパンチは要らない」と主張している間に、川嶋のオーラーライトハンドが炸裂してダウンを奪ったシーンのようなことがあれば、亀田戦では「この解説者は何を言っているんだ。全然違うことが起きたじゃないか」という批判は必ず沸いてくるだろう。
さらに繰り返す。そんな批判は問題ではない。結果論に合わせるだけなら、完ぺきな風見鶏を用意するか、2人の解説者にどちらかを擁護させ、片方を切り落とせばいい。だが、そんなことは何も生み出しはしない。一つの主張をポイントに、皆が考えれば大成功だ。そのためには余計な被弾もあるかもしれないが、信念・主張は曲げずに言い切ってもらいたい。かつてはルールの認識不足により、当時は採用されていなかったスタンディングカウントを取るべきだとしきりに叫んでいた時代もあったが、そんなマヌケなことはもうやらないだろう(と心から信じたいので信じる)。「KO牧場を期待します」の一言ぐらいは許すから、それだけは実行してもらいたい。
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