<お知らせ>
この度、長らく使用した「Diary Note」から「livedoor Blog」へ移ることとしました。新URLは以下。
http://blog.livedoor.jp/blue_hedgehog/
 バスケットボール日本女子代表の試合を見に行ったのだが、ハーフタイムのパフォーマンスで珍しいものを見た。コートに登場したのは、早稲田大学の男子チアリーディングチーム。高く連なってやぐらを形成し、その頂点から後ろ向きに落下する動きは迫力があり、やぐらの周囲では連続で側転や宙返りを見せてスピード感を演出していた。

 以前にテレビ番組で男子の新体操を見たことがあるが、チアリーディングは少し違った性格を持つ。彼らは演技者であるだけでなく応援者でもある。動きながらも笑顔を絶やさず、掛け声を通じて観客にアピールしていた。

パフォーマンス自体は「男子チアリーディング」の響きほど違和感はない。しかし、「レッツゴー、ニッポン」の掛け声が、後ろにハートマークが付くようにしか聞こえなかったことが気がかりだ。終盤の劇的逆転3ポイントで勝ったから良いものの、どうか日本の行く末を案じなくてもよい掛け声をお願いしたいものだ。
買い物が魅惑的なのか、馬鹿の不思議さなのか。会社の先輩であるタケウチさんは以前、再生機を持っていないにも関わらず、松本人志の「一人ごっつ」のDVDを購入した。風変わりだと片付けるのは簡単だが、「衝動買い」という言葉があるように、物を買うという行為は、神秘的な力を持っている。

物を所有することで「支配欲」を満たすことができる。頼まれた物を買い取れば「仲間意識」を証明することもある。また、販売者に対して顧客となることで奉仕を受け「孤独感を紛らわす」あるいは「優越感に浸る」者がいる。それらは単に金銭の代替を意味するのでない。買うという行為自体が、金額の損得に留まらない感情を伴うのだ。

ところで、先日の日記に書いた「ひび割れたケースに入ったCD」の1枚を、原価の1000円で買ったのは、彼である。そして、タケウチさんは言う。「今、家にCDを聴ける機械がないんだよね……」。買い物の魅惑なのか、それとも。
目の前に2人の男が後ろ向きに立っていた。ふと、さほど空いていない間を割って前へ出ると、小さな渦に巻き込まれた。狂乱の喧騒は、意識する間もなく体に馴染み、ベルトに巻き付けた緑のビニール袋は、渋谷の暗室で行方をくらませた。酒や灰にまみれたフロアで踊った探し物を拾い上げると、今度は手首に巻きつける。

「屋根裏」と呼ばれる地下室では、今まさにロックバンドのライブが行なわれている。一回り大きくなった渦は、邪魔と邪魔を相殺して爆発的に広がると、あっという間にステージをも巻き込んだ。当てもなく動き回る光を浴びて男は歌う。

「月影に揺れる 夜明けまで残りあと僅か 幾許もねぇ、幾許もねぇ、夜を駆け抜けて」

振り回されたビニール袋の中には、ひび割れたケースのCDが2枚入っている。新しいケースにしようとは思わないのは、記憶が最高のチューニングを施すからだ。プラスチックの破片を散りばめたワレモノは、一際良い声を奏でる。
故郷――「こきょう」とも「ふるさと」とも読む。生まれ育った土地を指す言葉である。幼稚園の卒園間近まで住んでいた東伏見、中学1年の終わりまでいた秋津、大学に入るまで過ごした桂。僕は「出身」を聞かれるといつも、東京と答えるべきか京都と答えるべきか迷うのだった。

昨年の秋、長らく借家としていた秋津に両親が戻った。京都へ引っ越してから17年。その間、僕は何度か町を訪れ、その度に入居を許されぬ「我が家」を外から眺めた。だが先日、ついにその敷居をまたいだ。一部はリフォームされていたが、まさに懐かしの我が家だった。

一つの家に家族が住む生活。その中で自分の空間を持つ。アパートでの一人暮らしから、そんな状況に戻ると「帰って来た」とは感じていた。しかしながら、その場所を訪れること自体をこれほど楽しめたことはなかった。

相手が西の人であれば、自然と関西弁が口を突く。それでも、僕の故郷はどうやら秋津のようである。
先日、板橋駅からタクシーに乗った。運転手は、反論の余地を多分に残す話をしゃべり続けていた。
「サッカーなんて、速く走りきれる奴が何人いるかの話だろ。技術があっても、足の速い外国人にはかなわねえよ。俺に言わせりゃ、一番難しいのはソシアルダンスだね。体を半分開いて、見えてない部分と動きが合ってなくちゃいけねえ」

乱暴な理屈だが、スポーツファンの競技間比較では、この類が少なくない。
「サッカーは急に大量点は入らないが、野球には満塁ホームランがある」、「普段はミスをしない技がミスを生むから、フィギュアスケートは怖い」、「野球は表や裏があるけど、バスケットは攻守の切り替えが早いから面白い」

これらは半分が本当で、半分はウソだと思う。不要な比較を用いているだけで、実は皆「勝負は面白い」と言っているだけなのだ。どんな勝負も難しいし、逆転やアクシデントは予期せずに起こる。同じ意見で言い合うとは不思議なものである。
都心に初雪が降った16日の夜、学生時代の友人から電話がかかってきた。卒業後は特に連絡を取ってはいなかったのだが、昨年たまたま電車内で再会したのがきっかけで、時折飲みに行くようになった。というのも、彼が隣町に住んでいるということだったからだ。

「ちょっと助けてほしい」――聞けば、電車内でスリの被害に遭い、現金やキャッシュカードはおろか部屋の鍵も失い、夜遅いために大家さんが電話に出ないのだと言う。財布とは別にポケットにあった千円札で電車の切符代は払ったものの、宿も宿代もないとのことで、部屋に泊めることにした。

普段「あって当然」のものがなくなると、本当に不便だ。彼が実家暮らしであれば、家族の助けがあるだろう。クレジットカードの使用を止める面倒はあっても「物がなくなった」だけに話は留まる。だが、一人暮らしは自由でありながら、不自由でもある。やはり世の中、都合の良いものだけを選ぶことはできないようだ。
自宅の近くにゴルフ教室がある。屋内の施設で、ガラス張りのドアから一番手前のレーンが見える。どうやら的のようなものに向かって、球を打ち込んでいく方式のようだ。昼時や夕方に脇を通ると、ボールが的に衝撃を与える際の「ボスッ、ボスン」という音が聞こえてくる。目の前の道を通る人は、だれもがその奇妙な音の正体を探る。先日は、大学生くらいの男子3名が教室の中をのぞきながら、ふざけてスイングに掛け声をしているのを見かけた――「ワン、タン、メ〜ン」。

私は28歳になったが、まだゴルフをしたことがない。小学生の頃に漫画『プロゴルファー猿』に影響を受けて、近所の畑や林で勝手にコースを作ってゴルフ遊びをした程度だ。「チャー、シュー、メーン」でスイングを取るのは、漫画『あした天気になあれ』。だいぶ古いが、当時はちょっとした流行になっていたはず。今の大学生がそれを知っているとしたら漫画の影響力はすごいとあらためて思う。
本日は、柏の葉公園総合競技場で全国高校サッカー選手権大会を見てきました。良い天気に恵まれても日陰は寒かったですが、楽しませてもらいました。

第1試合の観衆は9000人との発表。一般にマイナースポーツと呼ばれる競技では、日本代表クラスでもなかなか記録できない入場者数です。その多くは、母校の応援団でしょう。両チームともバックスタンドから声援を送っていました。中でも、久御山高校(京都代表)の応援は、迫力があって良かったです。流通経済大学付属柏高校(千葉代表)の方が応援団の数は多かったように見えましたが、メガホンを通しての生声が力強くメーンスタンドまで届いていました。

最近では、バレーボールやバスケットボールでスティックバルーンがよく用いられていますが、私は好きではありません。肉声や拍手こそ、シンプルながらもっとも気持ちの伝わる応援だと思っています。スタジアムに響く大きな声は本当に気持ちが良いです。
皆様、あけましておめでとうございます。

相変わらず滅多に更新されていないにも関わらず、当ブログへお越しいただき、ありがとうございます。毎年書いていますが、今年はもう少し書く回数を増やしたいと思います。

今日は元日恒例の「筋肉番付」(TBS系列)を見ました。ハンドボールの宮崎大輔選手は例年、この番組での活躍で知名度を上げていますが、私はまだ観戦したことがありません。1月末までに北京五輪の予選(再試合)が行われる予定なので、東京開催が実現したら、ぜひ応援に行きたいと思います。

話は変わりますが、私は昨年の夏から現状に疑問を持ち、近々新しいスタートを切る気持ちでいます。しかし、実際に進もうとすると何の準備もなく、いかに誤魔化して来たかということを痛感します。「言うは易し」ですが、スポーツの世界で何をしたいのかを含め、この1年、自分が本当にやりたいことを確かめたいと思います。

本年も宜しくお願い致します。
日本テレビが製作する、サッカーのクラブワールドカップの中継映像は、約200の国と地域に放映されるという。

前身の「トヨタカップ」は、欧州と南米の王者が対戦する“世界一決定戦”だった。しかし、3大会前から6大陸の王者が集う形に変わり、今年は日本の浦和レッズが出場して注目を強めている。

そんな中、横浜F・マリノスのファンである私は、1回戦を戦う浦和を見て「うらやましい」と思った。応援するチームがアジアの王者となり、他大陸の王者と世界一を争う。そんな場があったら、何としても現地で観戦・応援をしたい。これは前回や前々回には意識しなかったことだ。

全世界の優秀選手が欧州へ集まり、トヨタカップは存在意義を失った。新たな形式もまた「新しく参加する大陸は2強と比べて弱過ぎる」という問題を抱えてはいる。それでも、全世界のサッカーファンが私と同じような気持ちであるかもしれないと考えると、喜ぶべき変化だと思えてきた。

■FIFAクラブワールドカップ ジャパン2007特集
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/club_wcup/2007/index.html(スポーツナビ)
 だいぶ時期外れとなりましたが、ボクシング界から身を引くこととなった亀田史郎氏について、コラム形式で書きました。
http://members2.jcom.home.ne.jp/blue-hedgehog/column_frame.html

 携帯で見ていただいている方はお手数ですが、PCよりご閲覧下さいませ。
 今回はコラム形式で書きました。ちょっと長いです。
http://members2.jcom.home.ne.jp/blue-hedgehog/column_frame.html

 携帯で見ていただいている方はお手数ですが、PCよりご閲覧下さいませ。
 オフィスを抜け出してコンビニエンスストアに向かう。エレベーターの中で、僕は同僚のワタナベと「6億円が当たったら」という仮定の話を少しした。「別の会社だけれど、サッカーくじで1億円を当てて退職したという話を聞いたことがある」と言うと、ワタナベは「仕事を辞めた? 1億円では足らんやろ?」と目をのぞきこんできた。以前、一人の人間が一生に必要とする金額は平均しておよそ2億円だと聞いたことがある。ただし、所詮は伝聞であり、情報の出処も確かではない。だが、それにしてもワタナベの「3億はかかるんちゃうかなあ」という言葉は、僕との感覚の違いを如実に表していた。計算が正しいかどうかなど、たった7階分の降下時間では問題ではない。彼は今年結婚したばかりで、身重の妻がいる。彼にとって“一生に必要とする金額”は、おそらくはまだ生まれていない子どもが大きくなる頃までの3人分を計算したものなのだろう。それに対して僕は、自分1人分の計算以外は考えもつかなかった。こんな風に28歳の僕は変わり行く周囲とのギャップを感じているのである。

 さて。決して富豪でも何でもない庶民の僕らが6億円を話題としたのは、宝石強盗を企んだから……ではなく、サッカーくじを買いに行こうとしていたからである。普段、僕は宝くじを買わない。数百円で数字の羅列を買い、非常に限られた場合のみ配当金が得られる。なぜに当選したのか、落選したのかなど、考えようのあるはずもない。思考や想像をめぐらせて握る競馬の馬券とは違い、宝くじは運任せの度合いが強過ぎて、その存在をうまくイメージできないのだ。そうは言っても、そんな僕が勝敗予想の不要なサッカーくじを買ったのは、やはり世間と同じように6億円という響きに導かれた衝動による。「6億円が当たったら、どうしようかな」そう話すと、ワタナベは当たってから考えろと言って笑った。しかし、それは大人気がないというものだ。宝くじの楽しみ方は、やはり馬券と少し似ているのだろう。結果が出るまでの間、僕が手にした紙切れは間違いなく「6億円」である。つまり、当たりかハズレかが分かるまでの間にこそ、宝くじの存在価値はある。「もう少し豪華なものばかりを食べることになるのだろう」――と夢を見ながら口にした、電子レンジで温められたカルボナーラや、ペットボトル入りの紅茶は、ほんの少しいつもより美味しく感じられたのだから。
 理由は覚えていないが、落ち込んでいた。きっと、数年前の記憶だ。その時、友人は電話越しにこう言った。
「どんな時でも、ご飯は楽しく食べなアカンで」
 以後、僕はこの言葉を大切にしている。

「空腹時に食べる」、「おいしいものを食べる」、「楽しい場所(店・風景)で食べる」、「人と一緒に食べる」
“楽しく食べる”ことは、この4つの要素のいずれかがあれば成り立つと思っている。もちろん、すべてが揃えば最高だ。
反対に、「おいしくないものを人と一緒に食べる」といった複雑な状況も起こり得るが、
それでも、どれか一つの条件があれば、「おいしくなかったけど、楽しかった、面白かった、嬉しかった」という気持ちになれるだろう。
大人になっていくほど強く思う。ご飯はとても大事な時間だと。

 また、ご飯にはいろいろとマナーがある。
子どもがよく大人に注意される類のものから、子どもよりも大人の方がやっかいなものまで色々と。
どのマナーこそ守るべきだ、という感覚は千差万別だろうけれど、僕にもいくつか「守りたいマナー」がある。
そして、そのマナーが共有された時もまた、ご飯を楽しく感じることができる。
「ジャルモゴッスムニダ」――韓国へ行く時、この言葉を覚えたのもそのためだ。
日本語には「ごちそうさま」と訳す。楽しいご飯のあと、僕はこの言葉を言うことにしている。
「いただきます」も欠かせないのだが、こちらは時々、言い忘れてがっついてしまうことがある。
ほかには、ご飯粒に限らず「残さずに全部食べる」というものもあるが、
最近では「ごめんなさい」があれば、無理にこだわらなくても良いと思うようになった。
お腹がいっぱいの状態では、もはやどんなものもおいしくない。おいしいはずがない。
それならば、ご飯を残すことよりも、おいしくないと思いながら食べることの方が失礼ではないかと考えたからだ。
(素材を用意してくれた人、料理をしてくれた人、一緒に食べてくれる人のすべてに対して)

 もう一つ、ご飯の話をしよう。これはマナーと言わずに、僕の好みとして話す。
「好き・嫌い」というのは、あまり好ましくない。アレルギーなどがある場合は、致し方ないだろうけれど。
創作料理の店へ行った時、店の主人が「ハモは大丈夫ですか」と隣の客に聞いた。
すると、「ハモはダメです。ウナギとか、ああいうのは苦手で。あ、あと、○○も△△もダメなので、抜いてください」と言い始めた。
正直なところ、僕は心の中で「今すぐ帰れ」と思った(僕のお店ではないので言いはしないけれど)。
「好き・嫌い」は、料理をする人をがっかりさせてしまうものだから、できるだけ避けたいし、避けてほしいと思う。
(料理人は「それならば」と工夫を凝らしてくれるかもしれないが、世の“作り手”には可能な限り自由を与えてもらいたいと考える)
幸いなことに、我が家の食事は「好き・嫌い」を撲滅する性格を持っており、
子どもの頃に、嫌いなものをありとあらゆる手法で食べさせられることとなったため、僕はほとんど「好き・嫌い」がない。
嫌いなものを食べさせる時の親父は楽しそうで、我が家によく遊びに来た従兄弟も同じ洗礼を受けて克服した……。

 ごはんはおそらく、万人共通の趣味だ(飽食の国だから言えることだけれど)。
どんな男も女も、どんな大人も子どもも、楽しいごはんの時には、とてもいい顔をする。
だから今日も、ご飯を楽しく食べたい。
 深夜、ラグビーのワールドカップをテレビで見た。先日、スポーツとはテレビ番組を指すものではないと日記に書いたけれど、さすがにフランスまで出かけるナントカはないと、言い訳をしながら。

 試合はフィジーに4点差で負け。最後、キックで得点を稼ぐペナルティゴール(3点)では追いつけないので、日本はロスタイムにトライ(5点)を目指して猛攻。しかし、届かなかった。

 テレビだから、実際の迫力や切迫感は分からない。だから、スタンドで見ていれば違う感想なのかもしれない。ただ、それにしても、僕は「逆転トライが生まれるかもしれない!」とは思えなかった。おそらく、力量は日本がやや下。その力関係で「やばくなってからトライを狙う」のは、通用すると思えなかった。

 ここまで書いてから白状するが、正直に言って、僕はラグビーに詳しくないし、ルールもロクに分かっていない。そんな僕ではあるが、前半のスクラムは意外にも分が良く(相手に一時退場者がいる時間帯もあったし)、押せば行けるかもしれないという良い手応えを感じていた。それでも日本は前半、キックで一時のリードを奪いに行った(この見解が間違っていたら教えてほしい)。その時点で、僕は日本に「賢いけれども怖さのないチーム」という印象を持った。

 僕の「勝負」における持論だが、(相手に与える)“怖さ”のない弱者はまず勝てない。負けているチームが最後に猛攻を仕掛けるのは、いたって当たり前のことで、それはもう怖さではない。だから、最後のアタックに僕はそれほど期待を持てなかった。

 長くなってしまったが、タイトルで「違和感」としたのは、この日本の戦いぶりが観客を熱狂させたからこそ、スタンドからは“ジャポン”コールが沸き起こったのだとする実況者の言葉に理由がある。それは本当に日本が与えた感動なのだろうか。僕は、スタンドの人たちがスポーツの楽しみ上手であっただけに違いないと勘繰ってしまうのだ。「よく頑張りましたね」という、温かくはありながらも単に激励の意味ではないのかと。

 だから、僕は彼のジャポンコールの描写が、どうしても納得できず、違和感を覚えずにいられなかった。言うならば、それは、テレビ観戦後に築地ですすった味噌汁が海鮮物のダシではなかったのと同じぐらいに……。
 仲間由紀恵から電話がかかってくる。
「ちょっと相談したいことがあって……」

 柴咲コウがジェット機で飛んでくる。
「隣、空いてる?」

 前者はNGで、後者はOKである。CM出演タレントの好みの話ではない。
シチュエーションの問題でもなく、セリフの問題でもなく、当然、auとダイハツの比較でもない。
バックミュージックである。

 前者はエディ・コクランの「カモンエヴリバディ」で、後者は爆風スランプの「RUNNER」。
どちらも好きな曲なのだが、CMと融合した時の魅力には雲泥の差を感じた。
前者は“楽しい”雰囲気に合わせたつもりなのだろうが、音量バランスの小ささも影響して、まるで存在感がない。
正直、CMの内容は楽しいだけに、音楽の存在感のあいまいさが残念だった。

 ちなみに、同じ曲をうまく使っていたのは、日産「NOTE」。
大きな白地のキャンバスを、青いインクを垂らす車が走り、絵を描くといった内容のもの。
音楽が鳴り始めた瞬間に、次のシーンが楽しみになり、好感が持てた。

 一方、後者は英語バージョンが新鮮だ(調査:ヴォーカルは、マスラヲコミッショナーの遠藤真志、らしい)。
こちらは、原曲を思い出す前にジェット機の排気音とともに強烈なインパクトを受けた。

 近年、テレビをあまり見なくなって久しいのだが、実はテレビCMが好きなのだ。
そんなわけで、どうしても一言「物言い」をしたく、日記に綴ってしまった次第である。お粗末。

<参考記事>

ダイハツCMで「RUNNER」のカヴァーを歌っているのは誰?
http://www.cdjournal.com/main/research/research.php?rno=2160

日産NOTEのCMで「カモン・エヴリバディ」をカヴァーしているのは誰でしょうか?
http://www.cdjournal.com/main/research/research.php?rno=2076
 タイトルをご覧になっただろうか。決して、僕が昔ジョアンナという女性と付き合っていたわけではない。さて、突然ですが、あなたの好きな映画について話して下さい。きっと、映画のタイトルはもちろんのこと、出演俳優の名前や、俳優が演じている登場人物名が口をつくことでしょう。たとえば、僕が好きな映画「グランブルー」であれば、主役は実在の人物をモデルにしたジャック・マイヨール、そのライバルはエンゾ・モリナリ。はて、ヒロインの名前は何だったかな……。インターネットで検索をして、ようやく思い出す。そう、ジョアンナだ。

 あなたがもし、昨日までの9日間にTBSの「世界陸上」を見たとしたなら、おそらく1年後には僕と同じ状況にある。来年の今ごろ(正確には1週間強ほどずれているが)、あなたはどこかで北京五輪のニュースを見聞きするはずだ。その中には陸上競技の外国人選手の名前があるに違いない。そのとき、たとえばタイソン・ゲイやアリソン・フェリックスは、僕にとってのジョアンナと同じ記憶になっているだろう。

 しかし、長居陸上競技場のスタンドで電光掲示板を何度も見上げて“主役”の名を確認した人たちは、別の名前を覚え続けているかもしれない。テレビ視聴者にとっての“主役”はテレビがほとんど決めることになるが、現場では違う。それぞれが見つけた「すごさ」や「楽しさ」がそのまま主役である。だから、会場に足を運んだ人は、テレビではさほど大きく紹介されない選手を覚えたりする。

 28歳になった今でも酒の楽しみ方を覚えきれない僕だが、スポーツの楽しみ方は少し知っているつもりだ。どんな記憶にも、覚えていること自体には限界がある。しかし、与えられたものと見つけたものとでは、その記憶の存在感は異なる。昨年の夏、「今度、日本でバスケットボールの世界選手権があるんだよ」と話したら、すかさず「テレビ(は中継)やるんですか?」と聞き返した知人がいた。そろそろ暑さが過ぎて、(スポーツの)秋がやってくる。彼を競技場へ連れて行く時が来た。
 久方ぶりの更新で、あっさりと。世界陸上が明日25日に開幕する。いろいろな見所があるが、僕が楽しみにしているのは、男子100m・男子400mリレーに出場する塚原直貴(東海大)。もちろん、予選をどこまで進めるかという期待もあるが、それよりも走る前の表情、走った後のコメントが気になる。彼の走りには「戦う」姿勢を感じる。
 他人の目が気になる。だれにでもそんな経験があるだろう。だが、自意識が強い人であっても“おかま”ほど、じろじろと見られることはないのではないか。僕が乗り合わせた都営大江戸線の車両に、長身で金髪のおかまが乗って来た。ここでは彼女という代名詞を使おう。乗客は彼女に視線を向けては、友人と目を合わせ、何事かヒソヒソと話しては、また彼女の身体をなめるように見回す。そして、一つ一つの違和感を確実に捉えていく。先ほど金髪で長身と書いたように、僕も同じような視線を向けた一人だ。

 ヘソ出しルックで、彼女は最近の流行に合わせたスキニーデニムを履いていた。脚は長く、細い。「やだ、あの人、おかまよ」とでもいうような顔を、彼女の背中側で見せていた女性よりも、はるかに美しい足だ。僕に女装の趣味はない。だから「もっとこうしたら、ああしたら」という感覚はない。だが、そんな僕でも、いかにも男らしい体格と顔立ちでありながら美しさを意識したのであろう痕跡が彼女には見受けられた。それは、一種の感心をもたらすものでさえあった。

 しかし、同時に彼女の苦労の痕も、僕は見つけてしまった。デニムの生地がすぼまって行く先、かかとが少し高くなっているサンダルの上に乗った彼女の足。爪にはペディキュアが塗られている。しかし、両足の小指だけはサンダルの帯に納まりきることができず、悲しく帯の外側に添えられているのだ。

 おかまのこゆびは、かくもつつましやかに。

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