オフィスにて。同じフロアの遠いサイドの自動販売機に、ジンジャーエールを発見! やっぱりな、ないってのはおかしいだろ、そもそも。あるべきなんだよ。あるべき。本当は、オレのデスクに近いサイドが正しいポジションだが、まあいいだろう。多くの食材を提供する1Fのファミリーマートより、オレはこの自動販売機に愛の100円を注ぐ。
 豆が美味いかどうかは知らない。だが、そのテレビCMは実に上手かった。

 アサヒ飲料「豆力十六茶」のテレビCMの話である。堂々としたイメージのある天海祐希が、ブサイクな表情、可愛い表情、カッコイイ表情のすべてを見せる。これぞ、まさしく女の魅力。と言っても、いいな。これだけ魅力が引き出された15秒は、十分に楽しめる。

<おまけ:参考URL>
http://www.asahiinryo.co.jp/newsrelease/topics/pick_0543.html
 ヘッドホンを付けずに電車に乗り込めば、耳はだれかの話し声を聞き取る作業を始めてしまう。盗み聞きをしたいわけでなくとも、耳は働かずにはいられないのだ。ある女の子の会話が聞こえてくる。

「だって、『ニヤッ』って笑うんだもん〜」

「違うよー。私のは『ニコッ』だもん」

 場合によっては「何をぬかしとんねん」と思うところだが、意外にも「なるほど」と納得してしまった。ちょっと大事なことを思い出すことができたのだ。確かに「ニヤッ」と「ニコッ」は、違う。もちろん「ニヤリ」と「アハハ」と「えへ」と「うふ」も違う。

 そいつは、えらい違いだぜ。間違いない。大事なことだ。少なくとも、モノを書こうって奴にとってはね。
 会社の同僚が松葉杖をついて出社してきたら、あなたは何を感じ取るだろうか。友人が眼帯を付けて待ち合わせ場所に現れたら、あなたは何を推察するだろうか。いや、たとえば左の頬が微妙に腫れ上がっていたら、どうだろうか。

「殴られたのか?」
 なぜに殴られなければならないのか。

「太った?」
 1日や2日で太るものだろうか。

 こんな馬鹿馬鹿しい回答が2つもあることに驚いたが、もっと驚いたのは、それぞれを答えた者が2名ずついるということだ。どうなっているんだ、この会社は。

「どうしたの?」

 無難だけれど、それでいいんだ。ありがとう。
映画『HEAT』 【5月11日(木)】
「ある奴が、こう言っていた。『ヤバい気配を感じたら、30秒フラットで高飛びできるように、面倒な関係はつくるな』と」

 テレビ東京で放映されていた映画「HEAT」を見た。すでに2〜3度見たことがあるのだが、何度見ても飽きない。残念ながら、冒頭の名言は繰り返されすぎているきらいがあるのだが、ほかにも登場する言葉が好きなシーンがある。ストーリーに関わるところでは、警部補が犯人に目星を付けるきっかけが「お調子者」という口癖であるのが良い。また、ロバート・デ・ニーロ扮するニールが「いつになったら家庭を持つのか」と聞かれた時のシーンは、何気ない場面だが好きだ。「その気になったらな」。

 30秒フラットですべてを捨てられる男の生き方は、とても気に入っている。大好きなデ・ニーロが演じているから、僕にとってはたまらない。言葉だけを追うとやや冷たい感じもあるキャラクターだが、彼はほどよく人間の温かみを持っている。そして何より、自分の気持ちにウソをつかない。好きなものは好き。嫌いなものは嫌い。やりたいことはやる。そのためには、何を犠牲にすることも厭わない。セリフにも行動にも、覚悟が抱えられている。

 後悔しない生き方は、きっと簡単には選べない。でも、後悔には気持ちのいいものと、気持ちの悪いものの2種類があると思う。高校生の頃から、僕は前者を選べるようにと意識してきた。小学校の時、中学校の時に味わった一つのものへの執着こそ、自分の最大の生き甲斐だと思い、同じようにすべてをかけられるような生き方を探してきた。だから、言葉を選んだ。言葉への想いは、きっと尽きないと思ったから。この年になると、家庭を持ったりするのが普通で、そういうものに生き甲斐を感じるのも悪くないだろうと思う……ことはある。でも、僕はまだ言葉で燃え切れていない。不完全燃焼で息苦しい空気を充満させているだけだ。

「30秒フラットで高飛びできるように」とは、犯罪者ならではの言い回しだが、これは死についても同じことが言える。死はきっと、突然訪れる。その時がその瞬間であることを悟るのには、30秒もないかもしれない。さよならをする時に、僕は面倒で気持ちの悪い後悔を抱えたくはない。そのためには、後回しのものは「その気になったら」だ。そして、生き甲斐は30秒フラットで笑えるように、燃えていなければいけない。

 だから、ニールの言葉は突き刺さる。
 顔におおきなシミのある人を、電車の中で見かける。インパクトがあるので気を取られるが、物珍しい視線を送るべきではないと、妙に視線を避ける。その後で数度、チラチラと見てしまう。やけどの痕であったり、吹き出物だったり、ホクロだったり。見た目で大きな特徴がある顔には、どうしても、そんなふうに反応してしまう。

 ビートたけしがバイクで事故に遭った時、顔の半分が麻痺したままテレビ番組に出演した。いくらかのパーセンテージで変化が起きた顔は、もはや同一人物には思えぬほどでインパクトがあった。本人にとっては、麻痺した顔も自分の顔であろうが、僕にとってはまるで別人の顔だった。彼の顔が元に戻った時、我がことのようにホッとした。

 歯の治療の影響か、歯の違和感を気にしすぎたせいか。布団から起き上がって、痛む箇所を鏡で見てみたら、顔の左半分がぼっこりと膨れ上がってしまった。鼻のすぐ横から顎までが、何か口にモノでも入れているかのように腫れている。そして、それこそ麻痺でもしたかのような痛みを伴っている。

 きっと、今の僕は「興味本位で見てはいけない」と思わせる顔である。でも、相手が自分だから「ひどいなあ」などと言いながら、鏡の角度を変える。腫れている部分をさすってみる。こわばった感じがある。どこを圧しても痛みが走る。他人から見て、今の僕は別人なのだろうか。それほどではないのだろうか。いい男が台無しなのだろうか。どっちみちブライクだからどうでもいいのだろうか。

 ただ、今の僕の顔には痛みと憂鬱だけがある。笑っても痛みやがる。
 歯医者に良い思い出はない。当たり前か。そもそも、よほどのことが無い限り、医療施設に良い思い出などあるはずはないのかもしれない。

 数年ぶりに歯医者へ行った。麻酔を打って、詰め物を削り、新たな詰め物を埋め込む。圧迫されて苦しんでいた歯茎も少し削ったと歯科医は言っていた。

 小学生の頃、「生えてこない余分な歯が、歯茎の中にある」と言われて、手術をした。麻酔をかけたものの、ペンチのようなもので歯を抜き出す動きはあごに響き、今でもトラウマになっているぐらいに恐怖と痛みを伴った。中学生の時には、ケンカで頭突きを食らって歯が割れた。体育教官のベンツで歯医者に送ってもらったが「血ぃつけたらしばくぞ」の声が、痛みよりも気になった。歯医者に良い思い出はない。だから、定期的に来なさいと言われても、すぐにやめてしまっていた。

 しかし、久しぶりに行った歯医者は、さすがに麻酔の注射は少し痛かったものの、随分とスムーズに事を運ぶ。相変わらず、あの独特の機械音には身震いするが、何だか定期的に通えそうな気がしなくもない。随分と放ったらかしにしていたので、治さなければならない部分も多い。サンマ定食を食べていた時に銀の詰め物が外れた場所も放置したままだ。

 歯医者さん、しばらくご厄介になります。
 口の中がズキズキする。多分、歯が原因だが、どうしたら収まるのか分からない痛みは、耐え難い。特に、それが神経系の場合は、本当に苦しい。普段から薬には頼らないようにしているが、この痛みはその価値観さえも吹き飛ばす。所詮、僕のこだわりもその程度に過ぎないらしい。歯痛にバファリンが効くと聞き、藁にもすがる気持ちですぐ服用した。「塗り込むと効く」と聞いて、考える間もなく、とにかくやってみたが、もっと痛かった。どう考えてもバカな教えだが、考えるという行動より先に気持ちが出てしまった。あまりに頭の悪い判断をしているものだから、教えた奴を恨む気にさえなれない。ヘイ、ドクター。ヘルプ、ミー。
 まるで興味のないことに熱意を注ぐ人がいる。好きなタイプではなくて、その価値観に共感することもできない。そんな時は、人をうっとうしく感じるものだ。

 でも、それをたかが好き嫌いによって、目を背ける人間ではありたくない。その熱意は必ず、何かを生み出すものだから。嫌いなものを真っ向から見つめる心のスタミナが必要だけれど、そこもきっと僕の勝負場所。そんな気がする。

「それは、あんたの趣味だろ」と思う。それでも、そこに熱意があるなら、そこから何かを学ぶべきだ。“うまく”やっちゃあ、ダメだ。“デキ”る奴になんか、なっちゃあダメだ。そいつは、オレじゃねえ。
 就職活動をしていた頃、こんな言葉を聞いた。

「企業が求めているのは、スペシャリストではない。プロフェッショナルだ」

 今になれば、よく分かる。でも、スッキリしない気持ちも、今でも残っている。仕事をするならば、お金をもらうならば、そいつはプロであるべきだ。頭では分かっている。でも、揺らぐ時もかなり多い――「オレは一体、何のプロだ?」

 言い訳はいつも、とてつもない速さでやって来て、先頭を切って走る。競馬に例えるなら、逃げ馬だ。ぐんぐん飛ばす。ほかの奴なんざ見向きもしない。オレだけが正しく、オレだけが理解を得られない。一般からの逸脱に身を置き、自らの存在を強烈に示す。勝手な正当性を訴えながら。こいつを差し切るためには、日ごろから脚をためておかなければならない。オレの毎日は、その追い足にはまだまだ程遠い。
 世に出した作品は、言い訳がきかない。たとえ、どのような事情があっても、出されたパフォーマンスを「本当はもっとできるんだけど、今回はこうなった」と見放してはならない。自分に言い聞かせていることの一つだ。ホームページに過去の詩やコラムを載せているのも、それらを見放さないためである。あったことは、これからの糧にこそなれど、なかったことにはならない。恥ずかしさも後悔も忘れてはいけない。楽しさやうれしさとともに、一緒に連れて歩いて行く。

 そうは言っても、未熟者は必ず、一つのパフォーマンスを終えた後で反省する点があるものだろう。この日に限って言えば、インスピレーションが圧倒的に足りなかった。有明コロシアムで見た光景は、恐ろしいほどに予想したままだった。「やっぱりなあ」という感想しか残せなかった。帰り道に何とかコラムの骨組みをひねり出したが、苦しかった。

 書く力がない分、気持ちの込め方とアイデアで勝負をかけている気持ちがあるから、インスピレーションが足りないなどというのは、屈辱的な状況である。それでも現状の力は込めた。だが、書き上げたものは、世に届かなかった。いわゆる「ボツ」である。

 これも、なかったことになど絶対にしない。こいつを抱えて次の勝負に飛び込んでやる。何回負けても、何一つ、なかったことになどしない。ありったけがオレの武器だ。
 他人の“ダメ”な部分が目につく。そんな時は、何をしなければならないか。知っているはずなのに、いつもその時には見えなくなっている。「他人のふり見て我がふり直せ」とは、よくいったものだ。
 代々木の東京体育館から緊急連絡。試合撮影カメラのバッテリーに異常が発生したという。予備のバッテリーをわたすため、汐留から国立競技場前へと向かった。会場に着き、一般客の入口で警備員に「取材者入口はどちらですか」と聞くと「よく分からないけど、あっちの方」という、とんでもなくアバウトな答えが返ってきた。ひとまず、そちらへ向かい、ようやくそれらしい場所を見つけた。久々に代々木を走って、ある昔話を思い出した。

 オフィスが表参道にあった時代があった(まだ表参道ヒルズはなかった)。代々木競技場から“鬼編”の電話がかかってくる(編集長なのに、なぜか外取材。オフィスにはいない)。
「ノートパソコンと小さいデジタルカメラを2人分、持ってきてくれ。もう試合始まるからな! 急げ!」
 とある格闘技大会の取材だった。試合開始30分前に「急げ」ではなく、電話をかけるタイミングをもっと急いでほしかった。

 ナイロン製の袋を二重にし、機材を入れてオフィスを出た。表参道から明治神宮前までは、赤坂通り1本でつながっている。タクシーを使いたいところだが、渋滞するようなら走った方が早い。週末だった。デートを楽しむカップルが腕を組んで歩く表参道を、僕はパソコンとカメラを抱えて全力疾走した。「なんだ? 何かの撮影か? いや、犯罪者か?」――背中に嘲笑と冷たい視線を受けて、とにかく走った。途中、ナイロン袋が破け、交差点にソニーのVAIOとサイバーショットがカランコロンと転がった。まるで万引き小僧のような状態だったが、慌てて機材を拾って脇に抱え、競技場まで走り抜いた。

「着きました」――息を切らせて電話口で報告する僕に、“鬼編”は言った。「今日、取材を手伝ってくれる○○君が入口の辺りにいるから、機材を渡して使い方を説明してやってくれ」。聞いたことのない名前だった。見たことも聞いたこともない人を、動物の勘で探り抜いた。不安丸出しの顔を見つけ「○○さんでしょうか?」と聞くと、見事に的中した。おそらく、相手も理不尽な報告を受けて困惑しているはずだという読みは、ズバリ当たった。簡単に機材の使い方を説明し、今度は手ぶらでオフィスへ走る。なぜ、帰りも走るのか。それは、その競技場からメールで送られてくる原稿を受け取らなければならないからだ。残りは、10分。今度は荷物がなく、道も下り坂。機材をナイロン袋などに入れて向かったのは、この帰路を急ぐためである。迷惑な男は、またもやデートスポットを引き裂くように駆け抜けた。

 さて、話を今日に戻す。僕がたどり着いたのは、残念ながら報道関係者の入口ではなく、選手の入口だった。しかし、あまり場所を変えても、取材者が僕の位置を把握できなくなると思い、その場所を伝えた。すると「じゃあ、会場を背にして右手に行って」と指示があったので、そちらへ向かう。相手は僕の位置を把握しているような口ぶりだった。「右手に階段があるでしょ?」そこにあるのは、交差点だった。「○○があって、○○があるでしょ?」ない。結局、その後も言っていることがさっぱり分からないので、一般のお客さんの入口に戻り、そこからの道順を電話で聞いた。代々木を走ることは二度とないと思っていたが、まさかの再現だった。

 電話からの指示は、最初の警備員の指示とはまったく逆方向だった。
「左側の通路に出て」体育館は右手にある。
「え? 通路? 体育館は右手だよ?」
「うん、通路に出て」
「え? 左手の道路のことを言ってる?」
「うん、道路、道路」。ふざけんな。
「そこを真っ直ぐ行くと、右手に螺旋階段があるから、そこを降りて」
「螺旋……じゃない階段はあるけど?」
「うん、それ」螺旋じゃないなら、螺旋とか言うな。

 それより、機材を運ばせた挙句、自分は動かないとはどういうことなのだろうか。その人の手がすくのを、僕は会場の外で待っていたのにも関わらず……。

 そして、ようやく目的地にたどり着き、機材を渡す。顔も見たくない気持ちで、来た道を戻りかけた。すると、そこには駅の出口が……。「取材者入口には、この出口が近い」と、一言言えなかったのだろうか……。なぜに、こうも理不尽に僕は代々木を駆けるのか。
 おにぎりを買うとしよう。例えば、3つだ。鮭、昆布、シーチキン。なかなかいい組合せだ。例えば、2つだ。焼きたらこ、いくら。悪くない。そこに落とし穴があることに、今日の今日まで気付かなかった。27歳の春、おにぎりショックに体がしびれた。

 コンビニエンスストアで、おにぎりの列を眺める。買うのは、2つ。1つは、シーチキンを選んだ。もう1つで、ちょっと悩んだ。鮭、昆布、焼きたらこ、いくら、梅干、高菜……。一通り眺めても決めきれず、視線がドラフト2巡目に入った、その時だ――シーチキン。

 手を伸ばした瞬間に衝撃が走った。あまりにも意外な落とし穴だった。なぜ「2つなら2種類」と決め付けていたのか。記憶をたどっても、同じ具材のおにぎりを複数買った覚えがない。コンビニ袋にお気に入りの“チキン・オブ・ザ・シー”を2つ。良い気分である。
 今年も、縁のない黄金週間がやってきます。友人・知人はそれぞれ、いろいろなところへ旅行に出かけたりするそうです。僕は(休みではないから)どこへも行かないのですが、旅行の話が出ると、必ずと言っていいほど聞く「お土産よろしく」なるセリフについて、ちょっと文句をつけてみたい。

 まず、お土産とは、頼まれて買うべきものではない。遠く離れた所にいても、思うところがある相手に「贈る」ものである。その思いを確保しようという魂胆が、美しさを削ぐ。もちろん、お土産を指定するなど、論外である。

 また、お土産とは物を意味するという考えが横行しているが、お土産とは形の有無に囚われないものである。例えば、僕は「土産話」を楽しみにしている。あるいは、元気を失っていたものが旅によって元気を取り戻したのならば、その現象自体もお土産として成立する。

 お土産はいわば、非日常的な楽しみの共有である。旅行者は、普段とは違う日々の中で刺激を受け、お土産はその刺激を他者へ伝える際の象徴である。つまり、どちらも非日常的であるのが、本来の姿である。お土産は、非日常的あるいは発作的な動機によって、生まれるものであるべきなのだ。「よろしく」なんてお断りである。

 ゴールデンウィークを楽しむ皆さん、どうぞ楽しんできて下さい。
 競馬「天皇賞・春」――ディープインパクト、予想どおりの勝ち方でした。

 3角から一気にまくるのは、さすがに想像した中で最も極端な例でしたけれど。

 馬に競馬を教えていく武豊は、前走で早めに仕掛ける競馬を教えました。

 意識しているジョッキーでなければ、ディープインパクトは今でも、追い込み一辺倒かもしれない。

 武豊はきっと、この馬を世界最強にしようと思っている。

 結果はもちろん、内容も「勝った」ではなく「強かった」というものを目指しているのだろう。

 勝利ジョッキーインタビューで、武豊は「この馬より強い馬がいるの? と、思うぐらい」と話した。

 余裕ではなく、挑発だと思った。ディープインパクトと武豊が世界の舞台に立つ時、彼らはきっと「挑戦者」ではない。

 王座統一戦のような気持ちで臨むに違いない。武豊は、非常に丁寧な話し方をするが、自信は隠さない。

 彼の言葉から、僕にも見えた気がする。多分、この後の偉業に僕は驚かない。あり得る。いや多分、ある。
 曙が、K−1オランダ大会でドン・フライと対戦するという。プロとして、恵まれたマッチメークだと思う。

 ドン・フライの試合には、ほとんど“ハズレ”が、ない。例え、世間で「八百長だ」と言われることが多い試合でも。

 肉体をもって戦うことで、人々を魅了する。ドン・フライは、その点においてプロフェッショナルだ。

 ドン・フライの名を出せば、多くの人は、伝説の「PRIDE.21」高山善廣戦を思い出すだろう。

 大の男が、相手の顔を殴ることだけに必死になったその姿は、大衆の格闘技に向けた好奇心に最も従順だった。

 だが、僕は高山戦もさることながら、2001年「猪木祭」でのシリル・アビディ戦が印象深い。

 フランスの若手K−1戦士と殴り合っておきながら、最後は「こういうのもあるんだぜ」と寝技からチョークスリーパー。

 相手の良さと、自分の良さを客に知ってもらい、その上で勝ちまで求める。彼より強い選手は少なくないだろうが、

 彼ほど魅了してくれる選手は、なかなかいない。フライは、きっと曙を面白いファイターとして見せてくれる。

 フライの試合は、見る。あんたは、最高。
 電話に頼るのはやめて、記憶と想像力にかけて、JR新宿駅の東南口へ向かった。

 人違いをしまいかという不安は、FlagsビルのGAPの看板の下で吹き飛んだ。

 16年前、東京から福岡へ引っ越していく姿を見送った友達の面影は、確実にそこにあった。

 懐かし過ぎる野郎が、いた。顔を見てから「ああ、そうだ。そんなホクロがあったっけな」と思い出した。

 彼は、約2年間クラスメートだった。4年生の時の担任は「オヤジ」で5年の時は「イノシシ」だった。

 彼の家の前は、曲がり角だった。彼の家の駐車場で吠える犬の名は「コロ」だった。

 彼の母親は、よくおやつの後にジャスミンティーを入れてくれた。彼の妹は、可愛かった。

 ある土砂降りの昼下がり、僕は彼の父親に「タジマ」と呼ばれた。僕は、タジマではなかった。

 ある日の休み時間、僕は彼に殴られた。彼は「八つ当たりだ、この野郎」と偉そうに言った。

 ある授業の最中、大きく手を挙げた彼は、先生から指名されると「ハイ! ……分かりません」と答えた。

 僕が好きなコは、彼のことが好きだった。でも、それほど悔しくはなかった。いや、どうだったかな。

 新宿の天婦羅屋で、ビールを飲めない僕を、彼は笑った。彼の記憶の中で、僕は青と白のボーダーのポロシャツを着ていた。

 話してみると、隠すことが何もなかった。伝える必要のない話も話したくなった。申し訳ないぐらい、何か嬉しかった。

 16年会わなかったが、今日は楽しかったぜい。
 抽象的な言葉には、利点と欠点がある。

 利点は、複雑な要素が絡むイメージを、全体像で伝えることができるところだ。

 世界で一番短い手紙のやり取りは「?」と「!」だったという逸話があるが、

 この場合の2つの記号は、まさに多くの要素を含む全体のイメージをつないだわけだ。

 反対に欠点は、意味する焦点をぼかすところで、相手には伝わりにくくなる。

 日本人ビジネスマンが多用する外来語は、これによるところが大きいのだろう。

 オフィスにいると、コンサバだとか、フィックスだとか、アテンドだとか、アサインだとか、

 異様なほどに外来語を取り入れている(このオフィスに外国人は1人もいない)。

 格好のついた言葉を用いることで、イメージの共有を相手方にうったえるわけだが、

 これでは、相手がその気にならなければ、何のことだかさっぱり伝わらない。

 おおよそ、利点を用いる人物は確信犯であり、欠点を用いる人物は表現の失敗からの逃走犯である。

 僕は、前者がいい。後者に憧れはない。
 オフィスで最も人気があるのは、おそらく若いOLではなく、コーヒーである。ウォーターサーバーから注がれる熱湯が、そこかしこでコーヒーの香りを漂わせる。一口に「コーヒー」と言っても、さまざまな形態がある。ある者は、ネスレの粉末を湯に溶かして自分で作り、別の者はオフィスの外に出て「スターバックス」で煎れたてのコーヒーを買う。また別の者は、自動販売機に120円を入れて缶コーヒーを取り出す。

 正直なところ、コーヒーに関して強い興味はない。確かにそれぞれ味わいや温かさは違うが、よほどこだわるほどには気にならないのだ。また、値段もさほど高価ではないので気にしないのだが、それはきっと僕があまり頻繁には飲まないためである。例えば、毎日スターバックスに通うならば、それなりの出費になるはずだ。それでも、スターバックスにこだわる人、缶コーヒーを極端に嫌う人など、こだわりを持つ人は多い。彼らはいつも心の中で“美味しいコーヒー”を求めているようだ。聞けば、味わいの違いを説明する者もいるだろう。コーヒーの人気の高さには、恐れ入る。

 ところで、オフィスの外で人気が高いものとして、コンビニエンスストアで売られている「お茶」がある。いまや、コンビニの飲料棚を完全に支配するほどのシェアを誇る。ところが、こちらの「お茶」に関しては、あまりこだわりを示す人はいないように感じられる。もちろん、誤解かもしれないが「やっぱり、煎れたてじゃないとなあ」と言う声を聞いたことがない。人気の高さから考えれば、あってもよさそうなものだ。そう言えば、紅茶はどうだろう? オフィスでは時々、アップルティーなどの変わった香りを漂わせる人もいる。しかし、やはりコーヒーに比べると少数であることは否めない。

 なぜにコーヒーばかりが好まれ、そのこだわりを語られるのか。ちょっとした不思議である。スターバックスの隣に伊藤園があったらいい。きっと、面白い。

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