最終学歴は、S大学文学部国文学科卒。つい最近まで小説など読んだこともなかった僕が書くと、まるでリアルなギャグである。「どの作品が“推理小説”であるかの判別は難しいが、自分が推理小説だと思うものについてリポートを書きなさい」という夏休みの課題で、僕が取り上げたのは競馬新聞だった。翌年の夏の課題では「あくまで、きちんとした小説が対象」と注意事項が加わっていた。そんな僕が今読んでいるのは、宮沢賢治だ。さすがに有名な作品の名前は知っている。小学校の教科書に載っていた部分は、目にした覚えもある。だが、彼の作品について何を語ることもできはしない。大学を卒業して5年目にして、初めて読んだのだ。

 驚いたのは“くらむぼん”が笑ったことではない。くらむぼんはなぜ笑ったの。分からない。小学生の時にゲラゲラ笑った、その不可解な言葉が、頭の中にしっかりと世界を描いたことだ。それから、「言葉でメシを食う」と高校生の時から言っている僕のセリフがバカバカしくなるぐらい、言葉は自由だと感じられた。まだ読んでいる途中だが、『風の又三郎』は、顔がニヤニヤしてしまって仕方がなかった。楽しい。「賢治、すげえじゃん」と友達なら言いたい。まだ知らぬものが多くあるとは理解しながらも、僕はこんなに楽しい言葉を、ほかに知らない。とっくに死んでしまっているが、とても楽しい人を見つけてしまった。
『シブヤ経済新聞』――アテネ五輪が行われた2004年頃、インターネットでニュースを読み漁っていた時に見つけたサイトだ。会社が六本木にあるうちに姉妹サイト『六本木経済新聞』がスタートした。そこからいくつかの姉妹サイトが誕生していることは知っていた。サカエ、天神、新宿、秋葉原……。しかし、先日久しぶりに同サイトのメニュー欄を見てみると、京都の烏丸(からすま)や、現在最も親しんでいる町・下北沢にまで及んでいた。3年間で1つのサイトが14の姉妹サイトを持つ一大ネットワークに発展するのを体感し、少し驚いてしまった。どうやら新橋分野も立ち上がったようなので、これからチェックしてみたい。皆さんも、自分の興味のある町のサイトがあればチェックしてみて下さい。なかなか面白いのではないかと思います。

シブヤ経済新聞(左のメニューにネットワーク系サイトへのリンクがあります)
http://www.shibukei.com/
 ゴキブリという生き物は、いつから“汚い”のだろうか。小学生の頃、校舎に現れたゴキブリを素手で捕まえた奴がいた。カブトムシやクワガタを取るのと要領は同じだ。当時の僕は「それとこれとは違うじゃないか」と、タテオカという苗字の彼を気持ち悪い人間のように思った。だが、すっかり大人になってしまった僕は、当時の彼の感覚こそ正しいように思うのだ。

 ゴキブリはきっと差別の真っ只中にいる生物だ。僕がゴキブリなら、間違いなく「クワガタとどこがどう違うんだ」と平等を訴えるだろう。おそらくという推測だが、多くの人はゴキブリを汚いものと感じながら、なぜにそれが他の虫よりも強くそう感じるのかを説明できないのではないだろうか。問答無用の感覚といえばそれまでだが、どうもいつかのタイミングで他者から刷り込まれたイメージに思えてならない。いや、そうは言っても、気味が悪いと感じてしまうのだけれど。

 場合によってはゴキブリを擁護する発言も辞さない。だけど、彼らは僕の擁護を受けるには一つ改善しなければならない点がある。彼らは死んでしまう時、なぜにクルッとひっくり返るのか。殺してしまうことの正当性に疑問を持っていたとしても、あの「悪い奴がやられました」とでもいうような姿を見ると、悪いことではないのだと思えてしまう。彼らの生き様はたくましいが、死に様もまた大事である。
 日曜日の夕闇をゆくりゆくり

 人通りまばら 商店街はずれ

 猫の好奇心が闇雲に光る

 喧騒の地下室へ足を降ろさば

 分厚くズシリとドアは重たい

 それを押し開けるように音が鳴る

 ガリガリかき鳴らされてズドンズダン

 ただの暗がりが彼らの居場所

 音は音を頼りに空間を超えて

 見えない振動が、影法師の胸を打ち付ける

 憧れと現実をつなぐ弦は何度も弾かれて

 ギタリストの指輪は色を変えて踊る

 音の灯に照らされて、腕が踊って足を誘う

 足が首を抱きこんで、激しいノッキング

 アア、ライブハウス、アアア
 時折、ファッション雑誌を買ってみたりする。ほとんどの場合、気に入るページは少ない。流行に敏感ではないのだ。それにも関わらず雑誌をまた買う。流行遅れの意識を避けたいのだろうか。

 ところで、ページの中にはファッションとは関係ないものもいくつかある。いや、人生の楽しみ方をファッションと呼ぶならば、それもふさわしい内容なのかもしれない。最新号の「MEN’S NONNO」には、「モテる男のとっさのひとこと」というページがあり、「モテる男のOK例」と「モテない男のNG例」として、いくつかのセリフが掲載されている。普通に考えて、やはりだれもがモテたいだろう。僕も例に漏れない。ただし、僕が言い得る可能性のあるセリフは「モテない男のNG例」に含まれる。

 さて、僕はどれぐらいモテたいのだろうか。本当かウソかは分からないが、すぐ隣には「モテる男のOK例」があるわけだ。モテたいならば使ってみれば良い。ところが、そこに書かれている言葉は、僕に強烈な嫌悪感を与えるのだ。モテたい、しかし、こんなセリフは口にしたくない。雑誌がおもしろおかしく無責任に書いた話で、特別だれが気にするわけでもない、とてつもなく自己満足な悩みが頭に浮かび、のしかかる。結論は「それやったらモテんでエエわい」という強がり。モテたいです。

To be or Not to be,That’s the question.
 鍵をかけたら、何はともあれ、脱がしっこしようよ――とは、B’zの『快楽の部屋』の出だしの詩だが、鍵をかけたら、何はともあれ、失くしてはいけない。それは、午前0時を過ぎた自宅のドアの前で気付くべきことではないはずだ。どうやら、我が部屋の鍵は、今もまだデスクで仕事をしているようなのだ。

 そんなどうしようもなくダサい理由で、3駅離れた町に住む後輩サトウユウの部屋へ押しかけた。ユウがバイトをクビになった経緯は、この日の僕と同等かそれ以上にマヌケだったが、九州一番のラーメンは宿代として希望どおりに奢ることにした。それから、ユウの楽天応援話や、僕がほとんど見ない野球の魅力についてなんかをダラダラと話した。そして、ユウには申し訳ないが、ユウが眠った後が実は刺激的だった。部屋にあった漫画『The World Is Mine』を読むことにした。どの時期か覚えていないが、ヤングサンデー連載中に読んでいた作品で、懐かしかった。登場人物のモンちゃんは、片っ端から人を殺した挙句に言う。「死んだ方がいい奴は死んだ方がいい」。当時、この漫画は僕にとってとても気持ちのよいものだった。今あらためて読んでみても、確かに面白い。しかし、まあ、本当に殺しまくる。これを気持ちよく読んでいたというのは、ちょっといかがなものかと思ったりもした。それでもやはり、僕の価値観とはマッチする部分が多いのだけれど。

 爺さんは山に芝刈りに、婆さんは川へ洗濯へ。僕は翌昼のオフィスへ、ユウは新しいバイトに行きましたとさ。おしまい。
 朝まで遊んで帰宅する途中、ドトールで一休み。寝ぼけてカバンを忘れてしまったことに部屋へ着いてから気付いて、ユーターン。この話とはあまり関係ないが、なぜドトールは「サーモンベーグルサンド」を復活させてくれないのか。この一品だけが楽しみで足を運んでいた僕としては、非常に納得がいかない。どう考えても通年メニューにするべきだ。ついでに言うなら、缶コーヒーの「ジョージア モカ・キリマンジェロ」も復活させてほしい。なぜにブルーエメラルドが生き残って、モカ・キリマンジェロがなくなる? それは納得できないというものだ。僕の大好きなメニューたちよ、そして僕の汚いブルーのカバンよ、プリーズ、カムバック。
 正当性を盾に取るのは、好きではない。「真面目に役割を果たしています」みたいな顔で、小さな自己利益に走っているのが透けて見えたりすると、どんなに僕がおしゃべりだといっても話す気持ちが萎えてしまう。どうせ自己中心的な行動を取るならば、堂々としたらどうだろうか。出来の悪いカモフラージュほど頭にくるものはない。僕の人生の外でやってほしいものだ。騙されたふりをしてあげるのも疲れるよ、本当に。
 いつのことでしょう、思い出してごらん。あんなこと、こんなこと、あったでしょう。

 いま、この都合優遇の時代に、思い込みが売れています。われわれは皆、各自の都合に魅せられて、

 個人の時間を有し、個人の場所を有し、個人の生活を送りながら、自分は孤独ではないと思い込むのに精一杯です。

 自分の趣味を他人に隠しながら、国際的電波網を通じて「僕も私も、君もあなたも」と優しさをかぶせた

 不幸のメールが飛び交っているとのことですが、そう、あなたは不幸なんかではないのです。

 私もあなたも幸せに違いないのです。そう、僕や私たちには、あんなこともこんなこともあったでしょう。

 だから私が言っていることは本当、いやリアルだし、あなたが思っていることもリアル、いや本当なのです。

 だからだからだから、いまひとつ、買って行きませんか! さあ、いま、思い込みがお得ですよ!
 レベルというのは、それほど大事なことだろうか。迫力が、技術が、戦術が、スピードが、足りなければならないでしょうか。超一流のそれらは確かに興味深いし、あるに越したことのない要素でしょう。しかし“勝負”の魅力に関して言えば、僕はそれほど重要なものとは思いません。

 今日は高校サッカーの決勝戦を現地で観て来た。昨年に続いて2−1。ただ、昨年の決勝戦を見た人の中には「昨年はハイレベルだったけど、今年は低レベルの接戦」と見る人もいるようだ。しかし、僕は、だれが、どのチームがどれほど高レベルかなど、気にはならない。伸び盛りで変化があるとはいえ、持ち得る力は大会が始まる時点ですでに決まっている。僕が見たいのは、すでに分かってしまった力の中から、どんな道を選び進むのか、その姿だ。

 ある人は試合後、「レベルが低過ぎるでしょう」と言った。だが、僕は胸を張って言える。いいゲームだった。
 まだ年が明けて1週間しか経っていないが、深夜にテレビを付けてプロレスが放送されていたのは、今日で2度目だ。

 小学生の頃、プロレス番組を見るのが好きだった。夕方、晩御飯を食べる前の時間に、新日本プロレスを見る。当時“強かった”のは藤波辰巳や長州力で、少し後にブームを築く闘魂三銃士(武藤敬司、故・橋本真也、蝶野正洋)が台頭している時代だ。見ているうちに、プロレスの世界ならではの暗黙のルールに少しずつ気付いていった。僕が最初に惹き込まれたのは、橋本真也vsトニー・ホームの“異種格闘技戦”だった。空手家の格好をした橋本が、ボクサーの格好をしたトニーを追い込んでは敗れる展開が繰り返された。とても素直に「橋本に勝ってほしい」と思ったが、ある瞬間に醒めた。アナウンサーが「中国での修行で身につけた、これが水面蹴りだー!」とか何とか言っている間に繰り出された、その水面蹴りがあまりにも大したことのない拍子抜けの技で「そんなんで勝てるわけないだろ……」と呆れてしまったのだ。以降、日に日にプロレスからは遠のいた。仕事で再びプロレスに触れるまでは。

 ところで、当時の僕でさえ薄々感じていたとはいえ、プロレスは基本的に「だれが強いのか」をテーマとする“格闘技”のスタイルをとっている。しかし、今ではボクシングだけでなく、K−1やPRIDEなどが現れており、プロレスがそれらに“格闘技”としてのリアリティで劣るのはもはや明白だ。プロレスにはプロレスの魅力・面白さがある。少なくとも僕はそう思っている。彼らは「だれが“プロレスラーとして強いか”」を争い続けている。しかし人気は落ち、テレビ放送も深夜枠に追い込まれた。そんな現代で、子どもの目にプロレスはどんなふうに映るのだろうか。少し興味がある。

<おまけ>
そう言えば、以前にだれかが言っていた。新聞記事に「子どもがK−1の真似事をしてケガ」と書かれていたと。以前ならば、それは間違いなく「プロレスごっこをしていてケガ」だったと。
 坂本博之がボクシング界を引退する。この日行われたラストマッチをテレビで見た。“平成のKOキング”は、もういなかった。リングには、明らかにまともには動けない体を引きずって戦うボクサーがいた。言って良い言葉か分からないが、印象としては痛々しかった。彼は自分のスタイルにこだわった。そしてきっと、そのせいで彼は勝つことができなかった。僕はそう思っている。でも、彼は自分のスタイルに価値を見出していた。だから後悔はないのかもしれない。そうだと良いと、心から思う。

 僕は一人のボクシングファンとして、彼にはもう少し可能性の広がるスタイルを模索してもらいたかった。そして、世界のタイトルを獲ってもらいたかった。そうはならなかったけれど、それでも彼自身に後悔がないのなら、たとえ結果が伴わなかったとしても、それで良いのだと思う。「損をする生き方」だとしても、自分が納得のいく決断をするべきだと、あらためて思う。ボクシングでは期待に応えてもらえなかったが、その生き様を見せてくれたことには感謝したい。お疲れ様でした。

<おまけ>
畑山隆則との一戦は、とても良い試合でした。機会があれば、ぜひ多くの人に見てもらいたいものです。
応援 【1月5日(金)】
 大晦日から駒沢陸上競技場へ足を運ぶ日々でしたが、それも今日で終わりです。高校サッカーはベスト4が出揃い、舞台は国立競技場へと移ります。今大会では、記者席がメーンスタンド側にあるのに対し、両校の応援団がバックスタンド側に位置取るので、試合とともに各校の応援の模様も見ることができました。僕は“応援の仕方”について、思うことがいくつかあるのですが、そのうちの一つに「勝っている時に騒ぐのはだれでもできる。負けている時の応援こそ、本当に価値のある応援だ」というものがあります。これは、野球漫画の『キャプテン』(作者:ちばあきお)で、野球部のOBがスタンドでしょんぼりしている応援団を一喝するシーンのセリフがきっかけで気付いたことです。確かに意識して見てみると、負けている時は傍観者になりがちなようです。この日、静岡学園高校が作陽高校に敗れたのですが、途中から静岡学園の応援が消えてしまったのが、個人的にとても残念でした。やはり応援は、しっかりとシーンを捉えて、かけるべき声をかけてあげてほしいと思います。替え歌などが多いようですが、本当にありがたいのは、単なる盛り上がりよりも、プレーしている選手の気持ちとシンクロする言葉ではないでしょうか。苦しい時にこそ応援を。優しさと厳しさをもって声をかけてあげてほしいと思います。

<おまけ>
近所の野良猫が駐車場で砂浴びをしていました。ゴロゴロと転がって気持ち良さそうだったのですが、近くで人がくしゃみをすると、ゴロゴロしたままピタッと体を止めておそるおそる声がした方向を見つめたりして、その様があまりに可笑しくて笑ってしまいました。猫という動物の、あのとぼけ具合は愛らしくてたまりません。とは言っても、僕は「ペット」化してしまうのは嫌なので飼いませんし、エサもあげませんけれど。
 昼間、寝ぼけたままテレビを見ていたら、殺人事件のニュースが報じられていた。20代の男が、1歳下の妹を殺した容疑で逮捕されたという。その報道内容が真実だったと仮定して話を進める。殺人事件の場合、いつも「殺さなくてもいいじゃないか」と思うのだが、一方で「殺されるようなことをするなよ」とも思う。最近は中年男性が年老いた親を殺してしまうニュースも少なくない。勝手な想像だが“言葉”によって殺意の引き金をひく者は、きっと愛情を超えた自己中心的な陶酔に陥って発言しているのだと思う。

 たとえ、ほかのだれが「言われて当然だ」と同意しようとも、殺されないためには言ってはならない言葉があると思う。気をつけなければいけないのは「べき」か「べきでないか」などでは、決してないということだ。宗教の影響なのか、「正しい行いは報われる」というような考えが世の中には存在するが、現実を見ればそんなわけはないのは明らかだ。「言うべき」ことを言って、殺されてしまう。そこに一体どれほどの価値があるだろう。殺される覚悟を持たないならば、「言うべき」ことを言ってはいけない時もあるに違いないではないか。それを“自分が言っていることは正しい”という判断に酔って発言してしまう。それはどれだけ“正しく”ても愚かだと思う。

 だからと言って「そこまで言われたら殺しても仕方がない」などと安易には思わない。けれども、なぜ、その言ってはならない言葉に気付けなかったのか、気付いてあげられなかったのかと思うと、少し物悲しいのだ。“正しいか、正しくないか”が判断できるぐらいに気持ちの余裕があるなら、注意さえすれば気付けるはずだと思えてならない。気持ちに余裕のない相手に追い討ちをかけることが、何を意味するのかもっと考えてほしいと思ってしまう。もちろん、殺してしまう方もあんまりだ。事情が分からないとはいっても「殴るだけにしておけよ」と思う(たとえ相手が女性や老人や子どもであっても、止められない殺意を抱くようであれば、殴るぐらいは構わないと僕は思う。女性も子どもも老人も、そこまで怒らせるならば覚悟を持って言うべきだ)。

 気分の悪いニュースは、推察やら考察やらをしてみたところで、やっぱり気分の悪いものだ。でも、もう殺人事件は簡単に起こる世の中になっていることは間違いなさそうだ。勝手ながら、自分の身の周りで起こらないことを強く願う。

<おまけ>
テレビでフィギュアスケートのエキシビション試合「ジャパン・スーパーチャレンジ」を見ました。浅田真央が愛犬を抱いて滑ったのだけれど、犬は大変そうだった。確かに顔は可愛いが、犬を抱いての演技は「可愛い」よりも「犬、大丈夫か?」ということの方が気になった。男子では、中庭健介の演技が抜群に格好良かった。フィギュアスケートであれだけ素直に「格好いい!」と思わせる演技は、なかなかないと思う。タバコ(本物ではないが、煙が出る!)を吸って物悲しい演技をする姿に思わずうなってしまった。織田信成はパジャマで登場して、得意のコミカル路線。相変わらず楽しくて笑わせてもらった。やっぱり、フィギュアスケートは競技よりもエキシビションの方が断然好きです。
 今日も駒沢陸上競技場で高校サッカーを観戦しました。日記用に一つピックアップしたいのは、室蘭大谷(北海道)の戦いぶりです。できることは全部やった上でのPK戦負け。報われてほしかったのですが、敗れてしまいました。競技場を訪れた方は、一体どんな気持ちで試合を見ていたのでしょう。

「巧い選手はいないか」「すごいプレーが見られないか」「どちらが勝つか」「あの選手はどんな顔をだろうか」
 いろいろな興味があると思います。僕の注目は「だれが自分自身の100%を超えるか」です。ちょっと伝わり辛いでしょうか。僕はさまざまなパフォーマンスを能力と表現のパーセンテージに分けて考えています。簡単な例を出しましょう。100の能力を持つAさんの90%と、60の能力を持つBさんの150%。数字にすると、同じ90ですが、僕は後者に期待をかけているわけです。僕の評価を良い意味で裏切ってほしいと思っているのです。

 この日の室蘭大谷は100%を出せていたと思います。敗れたからには、選手は満足できません。しかし、僕は本当に胸を張ってほしいと思いました。100%を出し尽くして敗れることは、なかなかできるものではないと思うからです。パーセンテージの高いパフォーマンスを、僕は「立派」と表現しています。この日は、第2試合の静岡学園(静岡)も立派でしたが、やり切ったという意味では、第1試合の室蘭大谷に一票投じたい気持ちです。

 僕はまだまだ生きるつもりですし、「生きているうちから死んだ後のことを考えるのは行儀が悪い」(三代目魚武濱田成夫)の言葉についても肯定的です。ですが、人間はやはりいつ何時死んでしまうか分からないと思います。病弱で苦しんでいる人よりも前に、車にひかれるかもしれません。これは冗談ではありません。その時、僕は自分の人生のパフォーマンスのパーセンテージが高かったかどうかだけが、心残りになるかならないかの重要な分岐点だと思っています(子どもが生まれたりすると違うのかもしれませんが)。また、そんな価値観で生きたいと思っています。

 今日の僕は何%だろうか。残念ながら100%ではないような気がします。でも、昨日よりは力を出せたように感じています。これこそが、今の僕の最大の生き甲斐です。他人から見たら寂しいかな? 僕は楽しいんだけど(笑)。

<おまけ>
年末に買い換えた携帯電話には、アプリケーションゲームが付いています。携帯電話でゲームなんてしないと思っていましたが、ハドソンの「桃太郎電鉄」が面白くて、移動中にピコピコと遊んでいたりします。ゲーム中に“スリの銀次”というキャラクターがいるのですが、荒川静香のモノマネで「カネウバウアー」というセリフを言ったりするのが、妙にツボでした。以上。
 大晦日に続き、本日も高校サッカーの取材で駒沢陸上競技場へ行って来ました。プレスパスをもらってスタンドの記者席に座るわけですが、この時にいつも思うのです。「有料のチケットを払っているお客さんに悪い気がしてしまうなあ」と。記者席は、やはり試合をはっきりと見ることができなければ意味がないので、ほとんどの場合、かなり良い場所に設けられています。そんな場所で試合を観て、仕事をするのだから当たり前とはいえ、無料。いや、給料をもらっていると考えれば、むしろお金をもらって座っているわけです。実際にはそうでなければ困るのですが、何だかとても大それたことをしているような気にもなります。

 よく観戦に訪れる方にとっては“いまさら”な話ですが、特に観づらい会場の場合は、差が顕著だと思います。安い席では、正直に言って、あまり試合を楽しむことができません。仕事でそのような場所に何度も座る機会を持つ前は、僕も安い席ばかりに座っていたので気になりませんでしたが、良い席に座り続けていると、安い席ももっと見やすくしてほしいものだと強く思うようになりました。陸上競技場でサッカーを見るのは、日本ではまだ当たり前だと思います。けれど、やはりサッカー専門のスタジアムで見ると、断然面白さが違います。

 普段、あまりサッカーを観に行かない人は、対戦カードや出場選手によってどの試合を見に行くかを決める場合が多いと思いますが、僕はスタジアムと座席で決めることをオススメします。まあ、サッカーで言うと、J1とJ2ではスタジアムの雰囲気というのが違うので、その点では高額なJ1の方が楽しめるとは思いますが。もしも、今年サッカーを観に行ってみようと思っている方がいましたら、ぜひ会場選びの際に「フィールドの周りに陸上トラックがあるかないか」に注意して下さい。同じ値段のチケットでもトラックがなければ1.5倍ぐらいはお得だと思います。

<おまけ>
ホームページに新作の詩「声を待つ」をアップしました。正直、これが“詩”なのかどうかは疑問ですが、一応詩として扱うことにしました。読まれた方は感想などメールなり書き込みなりでいただけると嬉しく思います。
 あけましておめでとうございます。毎年「毎日更新」を目標としている当日記ですが、一度も達成した例(ためし)がありません。それなのに、また同じ目標を立ててしまいます。それともう一つ、公開日記を始めた理由である「文字で表現することに慣れる、楽しむ、挑戦する」といった辺りも再確認して書き連ねたいと思います。時々、気持ち任せに書く時もあるかもしれませんが……。

 さて、「一年の計は元旦にあり」という言葉があるようですが、今回はタイミングを少しずらして年末に“計”を考えてみました。自分が目指すものに近付くためにどのような点に特に気をつけるかということですが、これは個人的に持っておけば良いことなので、あえて書いたりはしません。仕事のタイミング上、その“計”をもって1日早く大晦日から始動しました。一年で最も楽しみにしている全国高校サッカー選手権の取材です。出だしとしては、ボチボチという感触。早く、もっと胸を張れるように頑張りたいと思います。

 大晦日の次は、1月の2日、3日と取材なので、元日は休養にあてました。だから、特に「あれをした、これをした」というものはありません。大晦日の夜は、後輩のサトウユウ(バンド「レインマン」のヴォーカル)が毎年開催している年越し忘年会に顔を出したかったし、『朝まで生討論会』も見たかったし、何より年越しに“にしん蕎麦”を食べたかったのですが、何もせずに寝てしまいました。寒いスタンドでの長時間の観戦は結構しんどいものです。

 この日記を読んでくれている稀少な皆さんは、どのような年越しを迎えたのでしょうか。新しい一年、今年もまた宜しくお願い致します。

<おまけ>
サッカー天皇杯の決勝戦は、僕の予想に反して浦和レッズがガンバ大阪に勝利。途中出場の岡野雅行がきっちりと役割を果たしていました。お見事。我らが横浜F・マリノスは、予算の大幅削減でベテランを一斉解雇。さらに監督も「この年棒でOKしてくれる人」という選択により、早野氏に決まりました。しばらく、良い成績は望めそうにありません。坂田大輔、山瀬功治、那須大亮、栗原勇蔵、新加入する乾貴士といった若手の成長だけが楽しみです。
 あれこれありましたが、どうにか本日帰国しました。
 12月の始めに、後輩のサトウユウがライヴをやるという。バンド名は「レインマン」。一人称であるのが、この場合は正しいと僕は思う。足を運びたい気持ちはあるのだが、今回は行くことができずに残念だ。

 ところで、カタールという国では、日本の習慣である“おじぎ”をしてはいけないそうだ。頭を下げる対象は、神であるアラーのみとのこと。

「おじぎをしちゃダメらしいですよ」
「お前は大丈夫だろ、普段もしてないんだから」

 もう一人のレインマンは明日、雨の降らない国カタールへ飛ぶ。帰国は12月17日(予定)。おじぎは得意ではないので、お祈りの格好をして雨が降ったら、みんなにおじぎをしてもらう仕事に就こうと思う。行って来ます。
 冬の始まりに、屋根が騒ぐ。闇が退屈で、吐息は色をぼかす。髪がしっとりと重さを増し、幻想的な視界が拡がる。のれんを潜って光を浴び、腕を引いて音を消す。「いらっしゃいませ」と声がする。

 麺をすすり、スープを飲み、シナチクを噛む。割り箸に挟まれた“かき”を口の中で躍らせると、じゅわっと潮味が溢れる。硬さの存在しない歯ごたえを得る度、温かさに満たされる。

   かき塩ら〜めん

 意識を取り戻した瞳が文字を追う。確かめる。少しだけ水を飲んで、また確かめる。麺が重力に逆らい、存在証明の意思をなくしたスープが撥ね落ちる。のどが鳴る。

 冬の気配に隠れて、それほど長くもない時間が経つ。財布から文学者が一人消えた後、雨音は悔しそうに聞こえる。

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