オレが知るより多くの、オレのためのパスワード。滑稽で仕方がないぜ。
 暴力は、好きじゃない。それでも、ケンカはしたいと思う。と言っても、別にヤンキーぶってみたりしたいのではない。

 日本は、ブラジルに敗れた。夢を膨らませる先制点を奪ったが、ものの見事に逆転された。中田英寿は、ただ一人でグラウンドに残っていた。ちょっと変わった光景だったが、不自然さはまったくなかった。彼はきっと、ケンカをする相手がいなかったのだと思った。

 彼より下手でもいい、彼よりバカでもいい、彼より人望がなくてもいい、彼より何がなくてもいい。信念と、争いをも厭わない情熱でケンカができれば。そんな選手もいてほしかった。
 人生の「たら・れば」なんて、言い出したらきりがない。「違う母親から生まれてきたら」とか「違う国に生まれたら」、あるいは「もし女だったら」なんて言い出したらきりがない。でも、世の中で一つだけ何度も思うことがある。ブルーハーツを知らなかったら、あの時、従兄弟の部屋でそのCDを聴かなかったら、僕の人生はきっと随分違うものだろうな、と。まあ、もちろん人生なんて分からないので、ひょっとすると、あんまり変わらないかもしれないものだけど。
 仕事柄、写真を眺める機会がある。正しく言えば、選定しているのであるが。プロカメラマンの写真を見ていると、本当に楽しい。1枚の写真にいろいろなものが詰まっている。初めて買った雑誌を開き、こんなコーナーがあるのかとか、こんな写真の使い方をするんだとか、そういう新鮮さに似た、気持ちの高揚を感じる。

 一方で、自分が撮影した写真を見てみる。何とものっぺりとした感じで面白くない。ファッションセンスに欠けるのと同じような苦手感がある。おそらく、複数の要素を同時に感じるということが、僕にはまったくできていないのだ。一つのシャツやパンツを選ぶだけなら、きっと僕もそれなりに良いモノを選ぶことができる。しかし、帽子と眼鏡とシャツとパンツとソックスとシューズを全部合わせるとなると、あっという間に降参である。

 いつも「武器は一つ」の覚悟を持つように心がけているが、それでは、こうしたコーディネート感覚は養われていかない。素晴らしいバランス感覚に対抗し得る1点豪華主義のやり方は、どんなものか。諦めるのは、死んでからでも遅くはない。
 だれもが書き込めるフリーのWEB百科事典「ウィキペディア」をご存知だろうか。必ずしも正しいとは限らないが、なかなか幅広くネタを押さえていて、読んでみると面白い。そこで「6月20日」を調べてみた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/6%E6%9C%8820%E6%97%A5

 ああ、佐藤琢磨がF1で表彰台に立ったのは、ちょうど2年前なのか。あの日は(無理強いされた)徹夜作業をしていて、オフィスではテレビを付けていた。最後の何周かは、僕も上司もブラウン管を食い入るように見ていた。明け方だったはずだ。まだみんなが出社する前、僕らは興奮していた。「うおー、すげー!」と、何回も言った。でも、すごく眠かったから、その後のことは何も覚えていない。ただ、あの興奮は蘇る。オフィスのどの席で見ていて、だれがどこに座っていたのかも思い出せる。今はもう、そのオフィスではないし、一緒に見ていた人は同じ会社にいないけれど。
 やはり、勝つに値しなかった。初戦で勝負所を落とした日本は、第2戦のクロアチア戦で“勝てる試合”を落とした。初戦の負け方を跳ね返せるほど、今の日本代表にまとまりがあるとは思えない。だから、いたって自然な成り行きではある。ただ、この試合で化学反応が起これば、ブラジル戦で良い試合をすることは可能ではないかという期待も抱いていた。その象徴は、負傷から戦列に戻った加地亮であり、何より心強い川口能活だった。川口はPKを止めてみせた。だが、それでもやはり勝てなかった。中村俊輔は精彩を欠いた。柳沢敦と高原直泰の2トップに怖さはなかった。ジーコのさい配が試合を好転させることもなかった。

 オーストラリア戦の後半の頭。あの時間帯の戦い方から、この結果は予測ができてしまった。もちろん「うまくいけば」ベスト16も可能だっただろう。しかし、それはかなわなかった。そのとき、このチームが本当にベスト16にふさわしいのかどうかが試される。ふさわしいチームならば、この試合でやってのけるはずだった。しかし、それも起こらなかった。

 試合後の報道では、ブラジル戦に勝てばどうのという計算が伝えられた。でも、もう計算は終わってしまったと思う。どれぐらい、悔しさや無念さをぶつけられるのか。その意地だけが問われる試合になるだろう。武器を失っても戦えるのか、動けなくなっても戦えるのか。絶望を受け入れない、無視できる強さが必要だ。中山雅史は、いない。鈴木隆行も、いない。でも、だれでもいい。見せてほしい。いろいろなものを背負った戦いを肯定したいから。称賛したいから。
 他人が僕の人生を折れ線グラフで表現したら、どんな形が出来上がるだろう。偏差値を重視するなら、きっと高校3年から下降していることだろう。喋る量を重視するなら、ずっと高度な位置を保っているかもしれない。所持金を重視するなら、ずっと小さく上り続けているはずだ。ところで、この基準を「輝いている度合い」とした場合、やはりどこかに頂点を迎えることになるだろう。

 だれかが僕の人生が最も輝いていた時期を評価する。一体、いつの時代になるのか、僕には分からない。他人の視点は十人十色だ。しかし、そこで無視できないのは「年齢」だ。グラフはどこかで頂点を向かえ、その後、それを超えることはないのだろう。それでも、上下の“ギザギザ”はいつだって作ってやろうじゃないかと思うのは、僕だけではないだろう。

 前置きが長くなったが、今日はサッカー・ワールドカップに出場しているポルトガル代表に触れたい。欧州のメジャークラブにポルトガル人選手が増え始めたのは、僕が世界のサッカーに興味を持った頃だった。つまり1990年代の中ごろだ。ルイ・コスタ、パウロ・ソウザ、フェルナンド・コウトがいた。そして、その後にフィーゴやデコが現れた。いわゆる“黄金世代”の結晶として最も期待をかけられたのは、2004年の欧州選手権だった。しかし、イングランドやオランダを破りながら、決勝でギリシャに敗れて栄冠を逃した。ポルトガルのファンの多くは今回のワールドカップは「大会の時期がもう少しずれていれば」と思ったことだろう。02年と06年、その間にポルトガルは“ピーク”を迎えたと考えられている。
 だから、今大会は「もう頂点を過ぎて下降状態に入ったから、それほど高望みはできない」はずだった。ところが、今のポルトガルは成熟度が高まった上で新しく若い戦力が加わり、ネームバリューでは04年に劣るものの、チームとしての強さは今回も十分に発揮できそうだ。今のポルトガルのサッカーを見ていると、「ピークなんて、いつでも生まれるぜ」と心強く思えてくる。“輝いた後の強さ”を感じる。
 セルビアに留学していた同僚は、サッカー・ワールドカップのセルビア・モンテネグロvsアルゼンチンを見るために、いつもより少し早く仕事を切り上げた。試合が始まって、それほど多くの時間が経たないうちに、アルゼンチンのスコアばかりが上積みされていった。

 特に2点目のゴールは秀逸だった。新聞の記事によれば、シュートまでにアルゼンチンがつないだパスは25本。その間、セルビア・モンテネグロは、ボールを持てなかった。数字だけでは間抜けにさえ見えるが、それぐらい鮮やかで機能的な動きだった。ほとんどのプレーが2タッチで終えられ、ディフェンスからすれば「来たと思ったら、もうボールがない」状態だろう。プレスをかけろと言われても、あれではファウルでもしない限り、かけどころがなさそうだ。シュート1本に対して「それは止められないよなあ」と思ったことは何度もあるが、コンビプレーでここまで完ぺきなものを見たのは初めてで驚いた。あれは、止められないでしょう。
 ビジネスができ、部下を持ち、周囲に認められる。

 それは、とても立派だ。

 でも、それを目指そうなんて、これっぽっちも思わない。

 できない人間の言い訳や強がりだと思うかい?
 サッカーのワールドカップは第6日を迎え、スペインがウクライナを4−0の大差で下した。

 実に鮮やかな勝ちっぷりだった。だが、それ以上に、スペインは僕の興味をひいた。調子が良い時に大勝をすることは、そう珍しいことではない。スペインは戦力に恵まれており、近年はどの大会でも期待をかけられてきた。それでも結果を残すことができず、聞くところによれば、その要因の一つには団結力の無さがあるとの声もある。それが事実かどうかは分からないが、確かに勝負どころで脆く崩壊するイメージがある。我慢が利かない自滅であったり、駆け引きであまりに無力に出し抜かれたり。厳しい状況を迎えてから、彼らが勝利を手繰り寄せる姿が見てみたい。ウクライナ戦は、内容が良かったこともあるが、チームには一体感があった。今度こそ一皮むけるのか、今回も同じ壁に阻まれるのか。スペインの見どころは、もっと後にやって来るだろう。
 結果は、予想していたとおりだった。それにしても、試合内容は歯痒かった。サッカーのワールドカップは第5日を迎え、日本と同じグループリーグを戦うブラジルとクロアチアが対戦した。ブラジルがMFカカの狙い済ましたミドルシュートで得た1点で勝利を得たのだが、まるで神前試合のように激しいプレスのない、クリーン過ぎる試合だった。

 ブラジルはおそらく「勝つつもりだが、まあ引き分けでも良い」のであり、クロアチアは「勝ちたいが、勝ちに行ったら負けるリスクが大きくなるので、引き分けたい。だが、負けたとしてもそれによってグループリーグ突破が難しくなるわけではない」のだ。両国と、オーストラリア、日本が2つの決勝トーナメント出場枠を争っているはずなのだが、もはや日本はその中に含まれていない雰囲気がある。

 実際に、オーストラリア戦の負け方はダメージが深く、日本は立ち上がることはできそうにない。それにしても、こんな緩い試合を見せられるとは……。個々のレベルは高いものの、見ていて悲しみは深くなるばかりだった。ジーコ、あなたはこの試合をどんな思いで見たんだ?
 ここ数日は、仕事をしているかサッカーのワールドカップを見ているか。よく見ているのは、NHKの衛星放送だ。NHKの番組は比較的に質が良い印象があり好きなのだが、試合の始まりと終わりに、僕はイライラしなければならない。

「チャンピオーネ」――人気グループ歌手の歌なのだそうだ。僕には、この曲が耳障りでならない。いや、ハッキリ言おう。この曲はダサいと思う。音楽通でも何でもないが、この曲にはセンスが感じられない。ダサい。
 ジーコは、きっと振り返るだろう。監督として初めてワールドカップに臨み、無残な逆転負けを喫した一戦を。

 1点リードで残り10分を迎えた日本は、オーストラリアに立て続けに3点を奪われて敗れた。大きな敗因を一つだけ挙げるなら、ペースを奪い返した後半に2点目を奪えなかったことだろう。なぜ、それができなかったのか。理由は複数あるのだと思う。その中には、ジーコの采配が及ばなかったことも含まれるだろう。

 今大会、監督としてのジーコが何をするのかが僕の最大の関心だ。彼を評価しない人も多くいるが、現時点での戦術的判断力あるいは指導力でいきなり優秀であるということは望むべきものではないと思う。ブラジル代表チームの監督補佐役を務めたことがあるとはいえ、初めて監督を務める人物だから。その点を求めるのであれば、ジーコではなく別の監督に期待するべきだと思うわけだ(それがかなわないから文句を言っているのだろうけれども)。

 僕は、彼が日本代表を率いた4年間で監督として成長していると思っている。また、彼の信念に曇りがないことに“大化け”の可能性を感じている。少しずつの進歩と、その信念が、このワールドカップで見せ場を得る場面があるのではないか、と。

 しかし、オーストラリア戦にその場面はなかった。むしろ、相手のヒディンク監督の采配が効果的だったから、ジーコの采配は随分と無力に感じられた。例えば「大黒の投入が遅過ぎる」とか「中村はもっと早く交代させるべきだった」とか、意見はいろいろとあるだろう。でも、僕はもっと前の時点でのミスが響いたのだと思っている。今さらながら、ジーコの選手選択は大きく間違っていたと思うのだ。

 単純に「あの選手を入れるべきだった」とか、そういうことを言いたいのではない。ジーコは途中出場で期待をかける選手を、大黒一人しか連れて行かなかった。あとのメンバーは、少なくともジーコの構想では「先発のバックアップ」だと思う。選択は誰でも良いと思う。ジーコが切り札として使う選手であれば、それが平山であろうが、大久保であろうが、松井であろうが(僕は松井や長谷部を入れるべきだったと思っているが)。より厳しい見方をすれば、選手に頼り過ぎたと言えるかもしれない。ただ、ジーコの場合、これは諸刃の剣であるように思うから、難しいところ。しかし、使えない剣では、意味がない。

 過度のプレッシャーがあったのか、選手を信じるという信念の見栄を張ってしまったのか。ジーコは、切り札を1枚しか持たずにドイツへ向かった。結果、オーストラリア戦では、逆転されてから大黒を投入する形となってしまった。1枚の切り札の使い方としては、おそらく間違っていないだろう。しかし、勝つためにはその前にもう1枚の切り札が必要だったように思う。

 今すぐに冷静な分析をすることはできないだろうし、今は必要のないことだと思う。それでも、ジーコはきっといつか、この試合を振り返ると思う。その時、彼は何を思うだろうか。僕の考えは選手選考のミスであり、選手に頼り過ぎ、監督が力を発揮する形での勝利を拒んだことにあるというものだが。いつか、ジーコに聞いてみたい。W杯が終わった後とか、そういうタイミングではなく、遠い未来で。
 1498年にコロンブスが発見した2つの島は現在、トリニダード・トバゴという1つの国として知られている。サッカーのワールドカップは第2日を迎え、この国のイレブンが強国スウェーデンを相手に健闘を見せた。それは、試合を見た者がサッカー界のコロンブスになるような話であるのかもしれない。

 サッカーに対する知識を多少は持っていると自負する。しかし、トリニダード・トバゴのサッカーと言われても、元マンチェスター・ユナイテッド(イングランドの強豪クラブ)のドワイト・ヨークを擁することぐらいは知っているが、それ以上のイメージが湧かない。それでも、明日からはこの試合を思い出すことができるだろう。

 技術がなくとも、歴史がなくとも、彼らはサッカーを通じて戦う姿を見せることができた。こんな試合を、東洋の島国にも見せてもらいたいのだ。世界中のサッカーファンをマルコ・ポーロに仕立て上げられたら、最高だね。
 サッカーのワールドカップが開幕した。ホスト国のドイツは、開幕戦でコスタリカに競り勝った。サッカーを見始めて15年弱で出来上がったドイツ代表のイメージは“骨太な中心軸とハイテクの翼”。フィジカル能力の高い選手が多い中、ところどころにテクニックのある選手が紛れている。過去のドイツ代表には、メラーやヘスラーといったテクニックのあるMFがおり、リトバルスキーは小柄ながらウイングとして活躍した。そして、僕が最も好きな選手は、サイドバックの位置から恐ろしいほど正確なセンタリングを上げたブレーメ。FKも得意だった。キック1本で魅了するこの選手は、プレーをする際の憧れでもある。

 さて、今大会のドイツでは、小柄でテクニックを生かした選手が大会初ゴールを決めた。左サイドバックのラーム。彼のプレースタイルも好きだが、ドリブルの印象が強いのでキック一本というイメージではない。むしろ、逆サイドのシュナイダーこそが、僕の好きなスタイルの体現者だ。残念ながら、開幕戦のプレーに特筆すべき点はなかったが、中心的存在のMFバラックが注目される中、僕はラームやシュナイダーを中心にドイツを見たいと思う。
 世の中に「合気道」という武術がある。テレビなどで見ると、ひ弱そうな爺さんが屈強な男を次々に投げ倒したりする。それが“ガチンコ”なのか“ヤラセ”なのかは知らないが、相手の力を利する動きというのは、どんな場合にも存在すると思う。言ってみれば「カウンター」というものは、この種類に含まれるものだろう。

 昨夜は、テニス全仏オープンの女子シングルス準決勝をテレビで見た。パワーに勝るクライシュテルスに対し、小柄なエナン・アーデンが巧みなストロークで対抗して勝った。シングル(片手)のバックハンドをうまく打ち分けるショットが特徴的だが、それ以上に攻められた際の受け方に興味をそそられる。

 テニスについて詳しいわけではないが、見ている限り、片方がコートの中央に近い位置に立ち、もう片方が左右へ動かされる展開になると、ミスが出ない限り逆転は難しいようだ。ボールに追いつくだけでなく、しっかりとしたショットを返さなければ、さらに動かされるようなショットが返ってくるからだ。ところが、エナン・アーデンの場合は「ようやくボールに追いついた」状態ながら、相手がフルパワーで攻められないようなボールを返す。しっかりとラケットを振っているわけではないのに、ラケットの角度や、当てるスピードやタイミング――そうした細かい点の工夫に神経を注いでいるように見受けられる。フルパワーで攻めるには「ちょっと打ちづらい」ショットを返すことで、結果として、相手は攻め崩したはずの展開であるにも関わらず「これで仕留めなければいけない」という焦りを抱きがちになる。

 相手のショットに微妙な変化を持たせる返球が、彼女を勝利に導く先導役だったように思う。決して大げさではなく、そのショットは合気道を彷彿とさせる。テニスでは、ボクシングのようなド派手なカウンターはあまり見られないが(時折ネット際の攻防ではあるが)、こうした返球もまた一つの芸術性を帯びているように感じられて、好きだ。
 音楽は好きだが、さっぱり詳しくない。ニューカマーや新譜はもちろん、だれもが知っているはずのカラオケの定番も知らなかったりする。おまけに楽器もロクにやっていない。小学生の頃にエレクトーンを習っていたことなど、今ではウソにさえ聞こえる。

 例えば、「好きなアーティストは?」とか「好きなジャンルは?」と聞かれたら、「THE BLUE HEARTS」と「パンク・ロック」と答えるのが最も的確だろう。だけど、興味の対象は意外と幅広い。セックス・ピストルズを聴いたあとで、エンヤを聴くことさえあったほどだ。

 さて、そんな僕が今手にしているのは、R&BのMD。アーティスト名や曲名は知らないが、知り合いの女の子に作ってもらった。R&Bは、比較的「落ち着く」イメージを持っていたのだけど、聴いてみると全然違った。かなり熱い。パンクあるいはロックのそれとはまた別の感覚ではあるけど、戦闘意識を掻き毟られる。なかなか好きになりそうなので、どんどん聴いてみたいと思う。
 ヒール。今日の話題では、悪役のことではなく、靴のかかとのことである。都営大江戸線の新宿駅で、長いエスカレーターの右側を上がっていく。前には女性。ヒールのピンだけが、エスカレーターの段を踏まずに前へ進んでいく。奇妙な光景だった。いや、器用な行動だった。
 一眼レフデジタルカメラの講習を受けてきた。分かってはいたけれど、やっぱり何も知らないまま撮っていたことにあらためて気付く。同じ世界の前に立って、異なる風景を切り取る。面白いよね。
 ブログの世界に「女王」と呼ばれる人がいる。タレントの眞鍋かをりである。とある用事があって、彼女のブログを初めて読んだ。ブログならではの、一人語り口調がうまく使われていて、楽しい。なるほどウケるわけだと思った。そのことには、それほど驚かなかったのだが、読み進めていくうちに、面白いエピソードに出くわした。彼女が実妹とフランス料理を食べに行った時の話だった。

 ドリンクの注文に、眞鍋かをりの妹は「ジンジャーエール」と答えたという。そして、ウェイターは「甘口と辛口がありますが、どちらにしますか?」と聞いたという。「僕なら辛口だ」などと思いながら読んでいると、次の行にはピンクの太文字で「中辛」と書かれていた。モニタの前で、思わずジンジャーエールを吹き出しそうになった。次の行の「カレーじゃねえんだよ!」という突っ込みも面白く、笑いをこらえることができなかった。

 中辛のジンジャーエール……。それは、衝撃的なセンスだった。ジンジャーエールに甘口と辛口があることを知った後で、「中辛」という感覚を持ったことはない。あまりに鮮やかな注文に、ウェイターはほどよい辛さのジンジャーエールで応えたという。

 ええ話やなあ。

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