風変わりな人というのは、それほど珍しいものでもない。独り言や奇声を発する人を駅や電車で見かけるのは、さして驚く出来事ではないのだ。

 僕は、電車の車両内でドア付近に立っていた。すると、新たな乗客が僕と同じドア付近の反対側に立った。互いがドアの方を向くから、自然と向き合うような形になる。彼の耳にはヘッドフォンが当てられていたが、音が漏れ聞こえてくる。曲までは分からないが、ハードロック調のように思われる。

 さて、そんな彼は冒頭で記したような、独り言や奇声を発する人である。ヘッドフォンから流れてくる曲に合わせているのだろう。何とは聞き取れない擬音を口ずさみ始めた。

 ツツ、ふふふーん、ダッダッダ

 だれもが「変な人が同じ車両に乗っているな」と目を向ける。彼がどんな感性の持ち主であれ、そのように見られることは避けられないだろう。それはやはり、一般的には「奇怪」と呼ばれる光景だから。

 だが、ここまでの話なら特に記すほどのことではない。では、なにゆえにこの話を書いたかと言えば、彼がその後とんでもないことを口走ったからである。彼は、ついに擬音ではなく、歌詞を口にしたのだ。しかし……。

♪げすいどぅ〜 ふふふーん♪

 僕は、絶対にそんな歌詞の歌ではないと思うのだが、飛び切りの笑顔でそう歌った彼に声をかけることなど、考えはしなかった。“王様”の直訳ロックだろうか。いや、きっと違うのだ。そう、きっと違うのだ。
 だれも乗っていない電車に乗ろう。選ぶ座席は「端」だ。後に両脇に人が座る可能性を考えて、われわれは少しでも窮屈さを回避できる「端」を好む。だが、少しばかり意識をし過ぎではないかと僕は思う。ちらちらと座席を見ては近辺の乗客と駆け引きを行いながら、奪い取るように「端」を獲得する者が少なくない。

 時には、「端」に座っていた乗客が立ち上がると隣の客がすかさず横に移動するという瞬間芸さえ見られる。一度座ったなら、その場でいいではないか。そんなに“得”をしないと、気が済まないのかな。いつもながら、電車内のオセロゲームは不思議な光景だ。
 あなたの「支持率」を調査します。そう言われたら、あなたは100%にできるだけ近い数字を希望するのであろうか。おそらくそうだろう。

 そもそも「支持率」とは何だろうか。ある物事や人物に対しての評価などというのは、統計を取る前の話に過ぎない。実際の「支持率」という言葉が示すものは多くの場合、権力を恨めしく思う者、権力を奪いたい者、権力に怯える者からの「支持率が低い=あなたは遠慮をしないと孤立、孤独になりますよ」というけん制のメッセージなのだと思う。

 まあ、たまには人気者もいて、高い支持率が出ることもあるだろうが、それはそれで構わない。気になるのは、支持率が低い場合だ。多くの人間は無条件に孤独を嫌う。だから、支持率が明るみに出れば、多数派に回る者が増えるに違いない。○○総理大臣の支持率は5%とでも聞けば、自分も支持しませんという態度へ向く。不人気者の巻き添えを食いたくはないのだ。

 ただ、僕は思う。「支持率が低いにも関わらず、現状として統率を任されている。少数派とは言えども誰かが支持している。それは、支持率が高いということよりも、はるかに立派なことではないのだろうか」と。権力の強引な行使は誉められたものではないが、低い支持率の中でも何かが誰かに通じている、伝わっているということは、そこに何かしらの真実のパワーがあるはずではないか。

 もう一度考える。「支持率」とは何か。それは僕やあなたに対する多数派への勧誘である。多数派に回ればおそらく、あなたは冒頭のメッセージを受けずに済むだろう。だが、もしもあなたが支持率を盾にするならば、あなたは支持率を問われてみるべきだと僕は思う。決して、時の総理大臣を擁護したいわけではない。シンパシーがあるわけでもない。ただ、「支持率」という言葉は、僕が嫌う性格を持ったものだということを言いたいのだ。
 満月の夜に昇る階段は、いつもよりも贅沢だ。
「絵の具」とは、よくできた名前だ。彼との付き合いは、きっと中学校で途切れたままだ。絵心のない僕は、強制でもされない限り、絵を描かない。だから、彼らを目にする機会もないのだ。

 そんな僕がふと彼らを思い出したのは、色彩感覚のコンプレックスが時折呼び起こされるためである。色をイメージして伝えようとする時、僕の口からは原色が飛び出す。だが、言語の表現はもっと自由だ。

 いつか、絵の具に、自分の知らない名前の色を見つけたことは、今でも覚えている。「朱色」と「やまぶき色」は、僕の知識のリストにはなかった。どんな色かと楽しみにして絵の具を搾り出すと、それは「赤色」と「黄色」だった。新しいものを覚えるのでなく、知っているものに当てはめる感覚が勝ってしまう保守的な潜在的性格が、色彩感覚ひいては色彩の言語表現を育てる機会を放棄してしまったのだ。

 以降、僕は新しい色を覚えるのが苦手なままだ。真島昌利は「ライラック色」と歌うが、僕は調べなければ分からない、悲しいセンスの持ち主なのである。

色 いろいろ 鉛色 、 灰色 鉄色 ねずみ色 、 グレー 銀色 メタルカラー 、 白と黒と間色 色 いろいろ
冷奴

めかぶ

梅ドレッシング
 ウェブ上に公開しているアドレスに1通のメールが届いた。正確に言えば、意味不明なものたちの中に、1通だけ読むべきメールが埋もれていた。

 メールのタイトルは、<朗読会であなたの詩「台風15号」を読みたいのですが>というもので、5月20日に茨城県でアートボランティアの企画があるらしく、その参加者の方からだった。何でも、宮沢賢治、草野心平、ネットで見つけた詩、自作詩を朗読するのだといい、ネット検索の対象として、僕の詩をチョイスしてくれたらしい(ほかのを探すのに疲れたのかもしれない……な)。

 自作詩を他者が朗読するという状況は、なかなか望めるものではないと思う。返信も遅くなってしまったので、彼が僕の詩を読むか読まないかは分からないが、ぜひとも聞いてみたいものだ。残念ながら、当日は仕事の予定があり、聞きに行くことができないのだが。
 人生は時としてビビった者勝ちである。「絶叫マシーンは苦手」などと言えば、男子ならほぼ確実に“ビビリ”の烙印を押されることだろう。それでも死なずに済むのなら良いのではないか。しかし、周囲の雰囲気に流されてしまうことは、僕にもよくある。中学校を卒業しようとしていた頃、大阪にあるテーマパーク「エキスポランド」へ出かけ、風神・雷神2に乗った。男が3人、女が2人の組み合わせでだれもが乗り気となれば、断る理由が見出せないというものだ。“立ったまま乗るジェットコースター”に体の自由を奪われた小柄な少年は、足がマシンからはみ出ないようにすることで必死だった。怖いと感じたかどうかなど言うまでもない。本当に「間違えたら死ぬ」と思ったほどだ。

 “ビビリ”でない人たちは「大丈夫なように作られているんだから。安全だって」と口々に言う。だが、僕にはその根拠がまったく見えない。人間は動物だ。着地できない高さを“ビビリ”で判断することができる。「この高さなら飛び降りても大丈夫」、「着地に気をつけないと危なさそうだな」、「この高さから落ちたらケガは免れないだろう」、「この高さから飛び降りたら死んでしまう」と、距離を測らずとも視覚で判断できる。その動物がジェットコースターを見て「安全だ」と思うならば、それは危機回避能力が麻痺していると考えるのが普通ではないのだろうか。「危ないに決まっている」ではないか。運営者が言わないだけで、どう考えても「何かあったら死にます」が正解だろう。

 事故が起きてしまった後だから、ここまでは頷く人も多いかもしれない。ただ、僕に言わせるならば、それは飛行機やエレベーターにもおいても同じことなのだ。どちらも「落ちないように作られている」。だが、ひとたびマニュアルから外れれば、そこには死があるだろう。より日常的な電車でさえ、スピードを出し過ぎて建物に突っ込む大事故が起きてしまったことは、まだ記憶に新しい。エレベーターが怖いなどと言えば、それこそ“ビビリ”どころの扱いではなく、失笑の的となる。しかし、それでも動物としての判断こそ正しいと思えてならない。人生は時としてビビった者勝ちである。
 都営大江戸線の電車が汐留駅を発車する。時間は日付をまたぐ寸前。黒人の家族が車両に居る。男の子が二人。どこの言葉か分からない言語でさまざまに話す。

 大きな子どもは「ジュース買ってよ、約束したじゃん」と向かいの席に座っている父親らしき人物に不満をぶつけた。突然発せられた日本語に、聞き耳たちは少し驚いた。

 六本木駅で彼らの間にある通路は、20代と思しき女性3名によって埋められた。女性たちの視線は一様に黒い子どもへと向き、彼についての雑談を始める。楽しそうな表情には、暗号を共有する喜びが含まれている。

 彼女たちは口々に話す。
「あ、ボールペン落としてるじゃん。あ、気付いた、気付いた」
 彼女たちは気付かない。子どもは親らしき人物に、どこかの国の言葉で話しかける。彼女たちは得意げだ。

 日本語という、筒抜けの暗号が、明るくも、悲しい。
 どれも要らない。欲しくない。

先輩たちの、「新入社員の頃と比べて一番成長したところ」(オリコン)
http://career.oricon.co.jp/news/43734/
 太陽、たまにはオマエも遅刻してみたらどうだ。

<おまけ>
新作「ハンバーグ」を掲載
http://members2.jcom.home.ne.jp/blue-hedgehog/poem_frame.html
「チョコボール」という言葉は、あなたにどのようなイメージを与えるだろうか。AVを見過ぎている男性なら、「チョコボール向井」を連想するかもしれない。テレビゲームをやり過ぎている方なら「チョコボ」までの響きに耳が反応するのかもしれない。多少は記憶力の良い人なら、とんねるずが出演していたテレビCMの「クエックエックエ〜」のフレーズを思い出すのかもしれない。だが、まっとうな人間ならば、まずは森永の製菓「チョコボール」のパッケージをイメージするのではないだろうか。平成生まれでもない限り、だれでも一度は手にしたことがあるはずだ。

 最近、この「チョコボール」が復刻版で登場しているのをご存知だろうか。黒いパッケージは昔と同じ味。白いパッケージは、ホワイトチョコレートバージョンだ。まあ、味はどちらでも好きな方を選べば良いと思うのだが、その昔、チョコボールと切っても切り離せない存在だった「くちばし」は、なくなってしまった。金や銀のくちばしをハガキに貼って応募すると、エンゼル缶というおまけが当たるというものだ。新パッケージを目にして「懐かしいな」と思った方は、このことを残念に思うに違いない。しかし、この新パッケージには新たな楽しみ方がある。中身を取り出すためにパッケージを開くと、そこにキャラクター“キョロちゃん”が描かれているのだが、さまざまなパターンの目をしているのだ。片目をつぶっているものや、両目が☆マークのものなど……と、なぜ、このように森永製菓の回し者のようなことを綴っているのか。それは、そこに描かれたキョロちゃんに惹かれてしまい、最近やたらとチョコボールを購入しているからである……。

 当ブログのオチに不満がある方は、買ってみるといい。多少は疲れも癒されるだろう。

<おまけ>
ミルクキョロちゃんの放浪ブログ
http://blog.morinaga.co.jp/milkblog/
――今、どんなお気持ちですか

 誰かに八つ当たりしたい気持ちでいっぱいです。

――どうしてですか?

 うるせえ!
 結局、毎年のように更新は追いつかず、皆から「ほら、結局……」と言われる形に落ち着かせることにした。ちょっと悔しい。ついでなので、思い出し日記を少し書こう。

<世界フィギュアスケート選手権>

 元来、エキシビションの方が競技より好きだったのだけれど、ちょっと見方が変わりました。これに関しては、ちょっとコラムっぽい形式で後日掲載するので(いつだろうね)、よろしければご一読あれ。

 それで、それはそうと、この期間に一つ腹の立つことがあった。都営地下鉄大江戸線に乗ってきた韓国人(?)が、突然車内で布教活動を始めたのだ。その異様さ、その笑顔が周囲に与える恐怖、そういったものだけでも嫌だったのだが、耳に入ってきた一つのフレーズが癪に障った。
「私たちのために、神様(キリスト)は死んでくださったのです」
 自分のために「死んでくれる」なんて価値観は、オレにはない。自分のために“死んでもらって”ニコニコできる奴は、とっとと降りろ。

<世界水泳選手権>

 日本人は、眉毛がないね。変だよ。北島の眉毛、かっこいい。

<ひとこと>

 無力さを痛感するっていうのは、決して気分の良いものではない。ただ、気付くチャンスがあったなら、目を背けずに気付きたい。自分の力が足りていないという、悲しい現実を。なぜなら、それでも僕は生きるから。
 テレビで水泳の世界選手権を見た(放映されている競泳だけ)。小学生の頃、僕はスイミングスクールに通っていた。運動神経が鈍いので、新しい泳法を覚えるのに時間がかかったが、一応、自由形、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライの4種すべてをマスターした。下級の内容はもう覚えていないが、中級が泳法の取得、上級は設定タイムのクリアが目標だ。僕は上級に入ったところで、スクールを辞めた。飽きていたということもあるが、「速く、泳ぐ」ということの意味が分からないという気持ちもあった。なぜ、速くなくてはいけないのか。

 他者と競うなら、やはりタイムになるのだろう。だが、僕には他者と競うつもりがなかった。むしろ、ゆっくりと泳いで、水と戯れる感覚を楽しみたいとさえ思っていたほどだ。だから、僕は「水泳」は習っていたけれど、「競泳」は経験がないと言っていい。競泳を見ていると、不思議な気分になる。

 僕は結局、最後まで「競泳」に興味を持つことはなかった。ただ、代わりに新しい泳法を覚えた。ある夏休み、伯父が「プールなんかだれでも泳げる。海で溺れるようじゃ意味がない」と言った。海はプールとは勝手が違う。波があり、何よりも周囲の状況に安心感がない。溺れはしなかったが、うまく泳げずに悔しい思いをした。そんなわけで、その後は海で「横泳ぎ」やら「立ち泳ぎ」やらを覚えていき(おかげで海は以前よりも好きになった)、より競技からは遠ざかったのだ。

 いずれも子どもの頃の話だが、ずっと僕の中に宿ることのなかった「速く、泳ぐ」感覚の選手たちを見ていると、原点は同じでも随分と“向き”が違ったものだと思わずにはいられない。
 まだ互いにあまり知らない人との会話では、だれもが共通点を探したりする。その中で「好きな音楽」という話題が出ることも珍しいことではないだろう。

「どんな音楽が好き?」

 アーティストの名を答える人がいるだろうし、「ロック」などジャンルを答える人もいるだろう。しかし、僕はこの質問への返答には、少し躊躇する。正答は、ザ・ブルーハーツであり、パンク・ロックである。けれど、例えば僕が即答した場合、僕が普段からこれらの曲を好んで聴くのだと思われる気がするのだ。ただ、実情は違い、ブルーハーツの曲を聴くのは、1年間でも数えるほどしかない。

 僕の中で、ブルーハーツは勝手に鳴り響く。あえて誤解を恐れずに言うけれど、彼らの歌は僕にとって“僕へのメッセージ”ではなく“僕から僕へのメッセージ”である。CDもMDも、i−podもテープレコーダーも要らない。聞くものではなく、聞こえてくるものだと言ってもいいかもしれない。時々、それだけでは足りなくなって、聞きまくるのだけれど、「聞く」のはその時ぐらいなものだ。

 説明が難しいけれど、言いたいのは「一番好きな曲は、滅多に聴かない」人間だということだ。そして、そこまでまいった時に、いつもそこに在ってくれるのがブルーハーツであり、今、僕が部屋で聴いているのが、その曲だということである。今日はレッツ、ミュージック。
 タイへ行くのだという。ほとんどの人がもう終わったと思っている、彼の夢を求めて。ビクトル・ラバナレスにへし折られた天狗鼻や、薬師寺保栄を殴って折れた拳や、ダニエル・サラゴサに思い知らされたキャリアの差の悔しさや、ウィラポン・ナコンルアンプロモーションに奪われかけたプライド、時が積み重ねた年齢――そのすべてを背負って。辰吉さん、行ってらっしゃい。オレはいつでも、あんたの勝つところが見たいんだ。
 その昔、電話が普及し始めた頃、電線に荷物をくくりつけて送ろうとした人がいたという話を読んだことがある(もちろん、本当かウソかは知らない)。

 今や携帯電話を用いない日はないぐらい、電話は日常的なツール(道具)だ。そして、僕らは電波にさまざまな声を乗せて送る。声には、気持ちが乗っかっている。気持ちには、想いが乗っている。気持ちや想いがたくさんあるほど、僕らはよく喋る。必死に電線に気持ちをくくりつけようと頑張っているわけだ。

 電線にくくりつけられた荷物よ、無事に届け。
 プロ野球と高校野球の間に「裏金」なるものが存在するという。まったくもって珍しくもない話だ。そもそも裏金のない世界など存在しないだろう。親戚筋からこっそりもらったお小遣いと、果たしてどれほど本質に違いがあるだろうか。おまけに「口止め」なんていうのもあったらしいが、どこの会社でも所属した瞬間から「口止め」が発生しているはずだ。

 汚いとかずるいとか。羨ましいんだろ?
 オフィスでくしゃみをしたならば、嫌がられるのが相場だ。おならでもしようものなら、失笑モノだ。でもね、オレはどっちも思い切りかましたいわけよ(別に人前でしたいわけではないが)。出るものは出るんだから、しょうがねえだろ。去る者は追わずってやつだろ。違うか。全然違うな。

1 2 3 4 5 6 7 8 >

 

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索