前歯に小さな欠片がある。中学生の時にケンカをして、頭突きを食らって割れたもの。一度は歯医者で付け直したが、剥がれて以来、汚れっ放しだった。なにせ歯ブラシを阻む入り江のように剥がれてしまったから。

 虫歯の痛みに耐え切れず、大嫌いな歯医者へ数年ぶりに行き、ところどころサボりながらも歯医者へ通う。そして今日は欠片が抜かれた。

 上の前歯を治療するため、上の歯茎へ麻酔を打つ。これが効く。唇を麻痺させ、頬を麻痺させ、なんと鼻まで麻痺する。鼻水をすすることもできないまま、自宅へ帰る。顔面しびれるぜ。
 ビックリするほど完成度の低いライヴだったが、サトウユウはイカしていた。今日のパフォーマンスなら最初の2曲は差し引くが、終わるのが惜しく感じられた。

 サトウユウは、学生時代のアルバイトの仲間で、よく喋る僕よりもよく喋る後輩だ。前のバンドで組んでいたベースと、可愛い女の子のドラム、レインコートとサングラスを着けてギターを持つユウ。ラップに合わせて踊る。声がひっくり返ったようなロックが始まる。2曲が終わってレインコートをようやく脱いで、ジャンル雑食ぶりが発揮される頃からサトウユウの存在感が際立った。見た目で言えば逆のはずだが。

 曲がちぎれるように終わったり、発声が歌になっていなかったり、引っかかるところは少なくない。僕は優しさだけで接することはできない。3曲目以降は、なかなか良かった。ちなみに、かつてユウの部屋で聴いた、バンド名と同じ名の「レインマン」という曲は、2曲目だった。

 曲の間に聞こえた「頑張ります」がそれほど面倒に聞こえなかった。僕は再びライヴに呼ばれることを望む。生き生きとした「レインマン」は、僕には見る価値がある。これでメシも楽しく食えるはずだ。

 ユウ、野郎と一緒にやるのはまだ後回しだ。ぶっちぎってからにしなよ。オレも走らにゃいかん。
「やればできる」人は、やらなくなるものなのだと思う。
 ちょっとしたきっかけだ。一つの質問文を思い付いた。
「あなたが『信用できる』人は?」

 最寄り駅からの帰り、いつもとは違う道を選んで歩いた。方向感覚を頼りに、見慣れない暗闇を歩いていく。方向を迷う不安と自分の勘を信じる気持ちが鍔迫り合いを行っている間に、僕は先ほどの問いに一つの答えを出した。

 聞きたい? 「うん」と言わない人は、まず信用できない。そんなやりとりも自宅に着いてからは思い付いたが、余談だ。

 なかなか、納得のいく出来となった答えは、こうだ。
「どこで裏切るか分かっている者」

 もっと温かい、もっと明るい答えもあるだろうが、これが一番ピッタリとするように思う。
「言いにくいことなんて何もない」

八百回ほど言えば良い
 ババケンに告ぐ。借りた小説は読み終えた。

 ストーリーがいくつも絡むのは面白かったが、ネタのパワーに負けている気がした。それが「優れていない」ということにはならないと思うけれど。この本より前にも、ドラッグとセックスの話がしょっちゅう出てくる話があった。僕の読み方が浅かったりするのかもしれないのだけれど、「ここでドラッグだぜ、怖いよな」とか「ここでセックスだぜ、ドキッとするよな」というのは、その時ばかりはいいとしても、どうしてもどこかで「まあ、そういうタイミングであることもあるだろうね」に落ち着いてしまう。すると「まあ、そこまでは当たり前だけど、そこからどうなの?」と思ってしまう。哲学書じゃないから、面白いと思えるポイントがズレたら、その時点でおさらばなのかもしれない。

 これは、ショッキングなニュースの時も同じだ。例えばニュースで近親相姦が明らかになったとする。例えば親が子を殺害したと報じられる。もちろん、「え、本当に!」とは思う。だけど、多分それはあり得る。アメリカで飛行機がビルに突っ込んだ映像を見た時も、本当に驚いた。でも、僕はパソコンの戦闘機のゲームの中で、操縦不能になった戦闘機を相手の基地にぶつけたことが何度もある。発想を違うところに使う人間がいても、そこには不思議がない。

 そんなわけで、僕は「ストーリーが何本も絡む」というところだけが楽しかった。セリフがオシャレなのは、最後まで人間が生き残る証拠だから、死ぬかと思われた人物が死ななかった点はあまり驚かなかった。なんか、表現力のない感想だね……。
 何かにうたれる感触だった。そう表現するのが、きっと正しいだろう。シャッターを切った自分がびっくりした。特別に良いとまでは言えないが、確実に、現在の僕が意図して撮れる写真ではなかった。できるようになるかどうかは分からない。ただ、きっかけを見た気が強くする。次に撮るのが楽しみだぜ。
「L・ダイヤモンド・フィリップス、恋人への暴力で告訴」(ロイター)というタイトルを、インターネットの写真ニュースコーナーで見つけた。その名前に覚えはなかったが、写真を見て僕が好きな映画の主役を演じた役者だと気付いたのだ。映画のタイトルは「ラ・バンバ」。夭折のロックスター、リッチー・バレンスの生涯を描いた伝記モノだ。
 おそらく中学生か高校生の頃だろう。この映画を深夜のテレビ放送で見た。そして、その時間に起きていることが珍しくない僕は、これまで同様の時間帯に数度、ブラウン管でこの映画に出会った。そして、その度に最後まで見ている。何がどう良いのか、意識できるほど明確ではないけれど、間違いなく僕はこの映画が好きなのだ。
 料理の腕に自信がないなら、より良い素材を得る努力が必要だ。好素材が手に入らないのなら、料理に工夫が必要だ。実力不足はすぐには補えないが、力量不足なりのやり方というものがある。分かりやすいのは「一点豪華主義」である。

 一点の武器を持ちながら、それぞれのベースをアップさせて行く。そんな試みに挑戦しているつもりなのだが、どうも武器を失っている気がする。出来上がったものは、ベースアップが生かされているだろうか。確信がない。「この部分だけは100%のパフォーマンスだ!」という自身の勝負ポイントもハッキリしない。ただ、それほど悪いというわけでもない気もする。

 燃焼感が最大の生き甲斐でありながら、実力を上げていこうとする時、何度かギャップの溝にはまる。片足なのか両足なのか、おそらく僕は今、はまっているのだ。ドブにはまろうが、きれいな湖で溺れようが、足を引っこ抜いて次なる一歩を地球にぶち込まなければならない。土足上等だ。感覚よ、起きてくれ。寝ている暇はないはずだ。
 夜中に震えた電話は、後輩からのものだった。スタジオに入り、音源を作ったから聴いてみてくれという話だ。かつて弾き語りを見せてもらったから、どんな曲かは知っている。フレーズも歌詞も大体覚えている。ドラマーを目指していた男のギターは、心境をよく表す音をしていたと記憶している。

 聴いてもいないうちから多くは言いたくないが、きっと彼はまだ出口に手をかけただけに過ぎない。それは曲の出来栄えの問題ではない。だが、突破口は力任せにこじ開けていいと思う。迷惑も省みずに光の予感に突き進むといい。「分かったようなこと」を言っていると感じるだろうか。オレは誰にどう思われても構わない。彼が得意とする身内自慢の中にいたいと思うこともない。「お前にオレの何が分かる?」と言われても、どうにも答えようがない。オレは正解なんて求めていない。ただ、自分の感覚に確信を持つだけだ。

 オレは新しいスタートを切った。さあ、みんな付いて来い。オレはみんなの良さを知っているぜ、そしてオレが大好きなものをお前も味わってくれ――好き放題に暴れ回るといい。自分にとっての正解は、自分が信じた道からしか得られない。

 この日記を読んでいる人にとって、今オレが書いたことは「意味が分からない話」だろうか。それとも「むかつく話」だろうか。どちらでも構わないのだ。オレは、お前の身内自慢の外側にいる。それは冷たいことだと思わない。それがオレのやり方だ。オレはきっと不快を感じることだろう。でも、お前はオレに構うことはない。邪魔をしたいが、したくはないのだ。オレの言っていることが分かるか。きっと、とんでもない勘違いの「分かっている」なんだろうな。こりゃ、だれが悪いんだかね。ただ、ウソはつきたくねえんだ、極力。
 サッカー、Jリーグの横浜F・マリノスについて。ナビスコ杯準決勝第2戦、横浜F・マリノスは2−1で鹿島アントラーズに勝利したものの、第1戦との合計では勝ることができずに決勝進出を阻まれた。久々にタイトルを狙えるかと思っただけに残念だったが、まあこの時期は結果よりも新しい芽を育ててほしいという気持ちがあるので、それほど落胆はしていない。

 ところで、オシム監督が就任して以降の日本代表には、F・マリノスから随分と多くの選手が選出されている。僕としては「まだ早いんじゃない?」と思う選手も招集されていたが、少し喜ばしいことだ。だが、同時に今こそ彼らをリーグ戦で育てるべきだとも思っている。前任の岡田武史監督は優れた監督ではあったが、辞めるべき時が来ていた。もう少し早く監督を代えてほしいと思っていたが、まあ仕方がない。成績が下降し、新監督に水沼貴史が就任した。彼はまだチームを率いるのは初めて。だから、今は成績を求めようとは思わないのだ。

 水沼新監督に求めるのは、若手の実戦起用だ。FW坂田大輔、MF山瀬功治、那須大亮、田中隼磨、DF栗原勇蔵。この5人をどうにかスタメンとして定着させながら、チームの向上を図ってもらいたい。そうするのが良いというのではなく、そうしてほしいという願いだ。特に坂田、山瀬、栗原は将来的に日本代表のレギュラーを狙ってほしいというぐらい期待を持って見ている。そして、彼らは今、僕の望みどおりにピッチで活躍し始めている。

 岡田監督時代の終盤は、あまり見たくなるような試合をしていなかったが、今のF・マリノスは久々に見たいという気持ちをかきたててくれる。幸い、11月は関東圏での試合が多い。何度か足を運びたいと思う。
 最近、食生活が乱れ過ぎだ。ろくなものを食べていない。そう言えば、昨年は宮城県の気仙沼まで秋刀魚を食べに行ったっけ。めちゃくちゃ美味しかったなあ(松島に行ったものの、雨天のために良い景色を眺めることができなかった話は置いておく)。おふくろがいつぞやに言っていたが、やはり食べ物は季節モノを食べなければダメである。
 オフィスは汐留。隣の駅は、築地市場。行かねば。
 ガッツ石松氏の挑戦に期待する。採点を公表する解説者――どう考えても損が多そうな役回りに、自身が望んでか望まずか、彼は挑戦することになった。解説者が採点を口にする時には、理由が必ず必要になる。そのときに大事なことは何だろうか? 多くの人に聞けば多くの答えが出るだろうが、僕は一つだけ挙げる。「信念を曲げずに言い切ること」だ。

 いまさら言うまでもないが、ボクシングの採点は難しい。特に亀田戦でクローズアップされた10ポイントマストシステムは、試合全体の印象とは異なることも多く、採点をせずに試合を見ている人にとっては結果が不可解に映る場合がある。僕は全体を通しての印象こそが判定のベースであるべきだと思っている。できることなら柔道のように、ダウンだけを効果なり有効なりに換算し、最後は赤と白の旗揚げで勝敗を決めれば良いとさえ思う(途中で負傷して試合続行が不可能な場合もあり、実際には困難だが)。そんなわけで、攻防が微妙なラウンドでも優劣を必ず付ける採点方法は、全体とのズレをより大きくする可能性があるので好きではないのである。

 さて、話を戻そう。僕が思うに採点者は試合の途中でそのズレに気付くこともあるはずだ。「このラウンドもチャンピオンがリードして10−9だ」と言いながら、全体的には挑戦者のアグレッシブさが目立っているだろうなと思うこともあるのではないか。少なくとも僕が採点をする場合は、ほぼ毎回起きた(だから止めたが)。大事なのは、ルール上は「ラウンド毎に採点」した結果が正しいのであり、僕を含めた多くの観戦者にとって正しいのは「全体を通しての採点」結果だということだ。採点の理由を語る場合、後者は無視される可能性があるが、仕方がないことと割り切るべきだと思う。結果としてガッツ石松氏の採点が、多くの観戦者にたたかれる可能性は否めない。だが、彼は揺らぐ必要はない。それは当然なのだから。「ほかの見方もある」のは、当たり前だ。採点理由の中に彼の視点がハッキリ描かれること、それだけが問題だ。他者を納得させるかどうかなど問題ではない。

 もう一度まとめる。結果が伴わなくても良い。視聴者が納得できなくても良い。ただ、ガッツ石松氏の視点を明確に描くことだけが大事だ。この日、テレビ東京で録画放送された川嶋勝重の世界暫定王座決定戦における石松氏の解説には、その心意気が感じられた。実況アナウンサーの誘いに乗ることなく「細かいパンチが必要だ」という自論を展開し続けた。2ラウンドでダウンを奪ったのは川嶋であっても“ボクシング(という技術の攻防)では負けている”という自分が受けた印象を濁さずに採点し「川嶋は負けていると思う」と主張した。今回は、結果も伴った。注目も特大というほどではない。だから、何も問題は起きていない。ただし「細かいパンチが必要だ。大きなパンチは要らない」と主張している間に、川嶋のオーラーライトハンドが炸裂してダウンを奪ったシーンのようなことがあれば、亀田戦では「この解説者は何を言っているんだ。全然違うことが起きたじゃないか」という批判は必ず沸いてくるだろう。

 さらに繰り返す。そんな批判は問題ではない。結果論に合わせるだけなら、完ぺきな風見鶏を用意するか、2人の解説者にどちらかを擁護させ、片方を切り落とせばいい。だが、そんなことは何も生み出しはしない。一つの主張をポイントに、皆が考えれば大成功だ。そのためには余計な被弾もあるかもしれないが、信念・主張は曲げずに言い切ってもらいたい。かつてはルールの認識不足により、当時は採用されていなかったスタンディングカウントを取るべきだとしきりに叫んでいた時代もあったが、そんなマヌケなことはもうやらないだろう(と心から信じたいので信じる)。「KO牧場を期待します」の一言ぐらいは許すから、それだけは実行してもらいたい。
「流行」は、流れて行く様か、流されて行く様か。どちらにしろ、僕はその単語に鈍感である。いや、はっきり言うならば理解できていないのだ。中学の終わりか、高校の始めか。僕はある音楽を聴いている間に、流行への関心をかなり大きく失った。ほんの少し前に流行っていた曲を部屋で聴いていたら「なんだ、この曲は。これのどこが良いの?」という感覚に陥ったのだ。流行っていた当時、僕はそこそこ気に入って、その曲を口ずさんでいたりしていたはずだった。戸惑いの正体を探るために、部屋にある曲を片っ端から聴いていった。

 ハッキリしたことがある。流行に乗せられて聴いた曲というのが確実にあり、またそうでなく聴いていた曲には感覚のブレがほとんどなかった。自分の中で、その曲は錆びるのか錆びないのか。その時から、そんな感覚で音楽に接している。流行の音楽を聴くのは、ぱったりと止めた。(そのため、大学時代には鈴木あみの曲と浜崎あゆみの曲の聞き分けができずに馬鹿にされたが……)。

 音楽も、本も、絵画も、映画も、僕は偶然に出会うことを楽しみにしている。そうすると、世間とは随分異なるタイミングで、流行したものに出会うことがある。今、僕は自分の部屋でスピッツの「スパイダー」を聴いている。う〜ん、すげえいい曲だ! 前置きがとても長くなったけど、言いたいのはそれだけだ。では、また。
 数はそれほど多くないが、温かみのある視線がグラウンドに注がれる。選手の声が聞こえる。感情はありったけの表情を見せる。見栄も、ウソも、誇りも、怒りも、喜びも、全部見える。その場のためだけに作られたものは、ほとんどない。皆がいつも作り上げているものが、いたって日常的にある。

 高校世代のサッカー大会「高円宮杯」を観に行った。小さな競技場で2試合、技術は未熟だが可能性を吸収する力に満ち溢れる大会だ。刺激が多いのだ。高校のサッカー部と、Jリーグをはじめとするクラブチームのユースが、関東を舞台に全国大会を戦う。初めて戦うチーム、初めて見るチーム、初めて行く会場、初めて見る観客。新鮮に違いない。

 だれもが何かを“作ろう”、“育てよう”としている空気がある。昨年、何度か取材で訪れて一気に魅了された。サッカーの担当を離れた今、本来なら出番はないところだが、ひょんなことからチャンスがめぐってきた。やっぱ、現場は最高だ。ただのお客さんで終わらないように、みんなが新しいサッカーを、選手を育てる場で、オレはオレを磨く。楽しいよ。
 写真を撮ることに楽しみを覚えてから、いろいろなカットを真似してみたり、チャレンジしたことのない構図で切り取ってみたりしている。その中で、今は明確にチャレンジしたいテーマがある。表情(かお)を撮りたいのだ。スポーツの試合中などになると、僕がもっているカメラではなかなか捉えるのが難しいのだけれど、最近は後輩のバンドのライブなどでチャレンジしている。もっともっと、トライしてみたい。
 ほかの人の方が僕よりも良い写真を何枚も撮れる。その現実は変わらなくてもいい。ただ、僕にしか撮ることができない写真というのも、世の中にはあってほしい。シャッターを切る時、僕はそんな望みを強引に信じている。
 グリコが発売している缶入りチョコレート「GABA(ギャバ)」。その赤い缶には、球状のミルクチョコレートが詰まっている。一つ口の中へ放り込むと、確かにほっとするようなゆったりとした甘さが拡がる。そして、どこか懐かしいような感覚が訪れる。

 チョコレートを食べること自体は、僕にとってそれほど懐かしいことではない。では、なぜ懐かしいと感じるのか。噛み応え、甘さ、口の中での溶け具合――それは、子どもの頃に食べていたチョコレート菓子、明治の「チョコベビー」に似ているからだ。製造元が違うのだから、同じ作り方ではないのだろうが、僕の中で2つのチョコレートは極似している。一度、お試しあれ。
 小さな振動が、オレの感覚のすべてを揺さぶる。興奮を抑えるのがたまらなくなり、叫びたいほどに満ち溢れるエネルギーを全感覚で受け取る。ただ抱いているだけで、世界が変わるようだった。オレは今日、生後2日の赤ん坊を抱かせてもらった。

「おめでとう」を言いに行ったつもりで、「体に気を付けてね」と言いに行ったつもりで、「大変ですね」と言いに行ったつもりで、そのすべてを置き忘れてきた。可愛い手の指、きれいな足の指、ぷにゃぷにゃとした肌の感触、ダイレクトに聞こえる息遣い、対人間の反応よりも自分の体の反応に純情な仕草、頭だけが重い3キロ。わずかな一つ一つの動作に、すべての関心が無条件に引き込まれる。

 病院を後にして、両腕に残る感覚を思い出す。強烈な感動が蘇ってくる。あれほどすごいパワーを感じたことは、ないかもしれない。トヨハマ夫妻、本当にありがとう。あれ? ありがとうを言ってもらうはずの立場だったはずなんだが……、まあ、いいか。名前が決まったら、また会おうぜ、ベイビー!
 しばらく小説を読んでいなかったのですが、最近、本屋で“適当に”選んで買ってきました。どんなジャンルなのかも知らないし、筆者についての知識もゼロ。カバーとタイトルだけの“出たトコ勝負”です。それで、読んでみて気が付くわけですが、どうやら、これは殺人犯罪の推理モノで短編ということみたい。以前にも書いたかもしれませんが、人があっさりと殺される物語には嫌悪感をおぼえます。一つ一つの物語が短いので、少し遠出した時に読むと、目的地に着くまでに登場人物が2人ぐらい死んでしまいます。帰宅した頃にはもう1人ぐらい死にます。表現の仕方とか、ものの捉え方とか、いろいろと取り込みたくなるものはありますが、どうしても殺人の要素が嫌ですね。作り話だとしても。

 まだ読み始めたばかりですが、これをさくさくと読み終えて、次に行きたいと思います。もう借りてきたので。“本マニア”とも言うべき知り合い、ババケン推奨の2冊。これまた、どんな内容かはまったく知りません。著者は有名っぽいですが、僕が不勉強すぎるために、まったく推測できません。さて、どんな話が書かれているのやら。

<おまけ>
前回の日記が6月25日分となっています。毎日更新→毎日分更新と無意味なノルマを自分に課していますが、そろそろタイムラグが広がりすぎたので、今日からリアルタイムと過去日記補完を同時進行したいと思います。さて、これでさらにタイムラグが発生した時は、どうなるんでしょうね。一人時間差攻撃の結末やいかに……。
 行ってみたいと強くは思わないが、興味を惹かれる国がある。メキシコ――ボクシングとサッカーで、その国の人々を僕は目にする。サッカーのワールドカップで、メキシコはアルゼンチンに敗れた。でも、やっぱりメキシコのスタイルが好きだ。いつも心を動かされる。ボルヘッティのゴールパフォーマンス、めちゃめちゃカッコイイね。

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